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大学で学ぶ意義とは何か? 世界のトップエリート校が考えていること

アクティブラーニング化の大きな課題
学生は厳しい受験競争を勝ち抜き、大学に高い授業料を払っている。にもかかわらず、世界のトップエリート校ほど、インターネットで授業を公開しているのはなぜか。現代新書の最新刊『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』の著者・平田オリザ氏による論考。

様変わりする受験産業

現在、ハーバード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)あるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは、MOOC(ムーク:Massive Open Online Course)と呼ばれ、多くの場合、インターネット上で誰もが無料で、その講義を受講することができる。コースによっては修了証が授与されるものもある(このMOOC自体もすべてが成功しているわけではないが、その議論はここではおく)。

これは一見、不思議な事象だ。学生は厳しい受験競争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。しかし、世界のトップエリート校ほど、このような授業の公開に踏み切っている。

かつては、たとえば熊本の若者なら福岡まで出て行かなければ得られない知識や情報があった。あるいは京都、東京まで出て行かなければ得られない知識や情報もあった。そして、苦労してそれにアクセスできた人間だけが、学歴やある種の資格を獲得して、その恩恵を人生全般にわたって享受することもできた。
 
しかしインターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。
 
このわかりやすい例は、実は受験産業なのだ。過去10年ほどで、地方の高校生の受験勉強は様変わりした。小さな予備校は次々に潰れ、受験生たちはインターネットを通じて、林修先生などカリスマ講師陣の授業を受けている。もちろんこれらは課金がなされている。しかし、これを囲い込むことは不可能だ。隣に友だちがいて「おい、おまえのところ貧乏で見られないんだろう。一緒に見ようぜ」と言ってしまえばおしまいだから。
 
もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。

 

「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ

そのようなネット時代を前提にして、しかしそれでも、ハーバードで一緒に議論をすることに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。
 
だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員も含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ。
 
実際、日本でも、表面上とはいえ、かつての大教室での一方的な授業は一掃されつつある。形だけでも質問票を配ったり、グループディスカッションの時間をとったりして、授業をアクティブ化する試みを各教員が行っている。そのようなことが教員の評価に直結する時代になってきたからだ。
 
文科省は、大学におけるすべての授業をアクティブラーニング化するように求めており、そのような努力を大学評価の大きな軸としている。

だが、ここに1つ、大きな問題がある。