東大生さえも無自覚に縛られる「みんな中流」意識の危うさ

東大入試問題から考える「格差と責任」
御田寺 圭 プロフィール

社会の混乱で崩れる「みんな中流」

今回の新型コロナウイルスがもたらした社会的動揺、あるいは日本のみならず世界中で暗い影を落とし始めている経済危機は、忘れ去られようとしていた真実を、口をつぐむしかなかった疑念を、白日の下に晒そうとしている。

「みんなが自由を謳歌した結果、だれに最終的なしわ寄せが行っているのか」は、余裕のある平時においては見えにくくなる。「一億総中流社会」という国民の意識を長らく存続させてきた基盤は、ほかならぬ経済力と人びとの余裕であった。

新型コロナウイルスの感染拡大が、ツイッターをはじめとするSNSが普及し始めた時期に起きたリーマンショックや東日本大震災と異なるのは、いまやすっかりSNSがさまざまな立場や階層の人々に浸透していることだ。

ミクロの声はより届きやすくなり、自粛や経済活動の縮小で困窮する人の声、あるいはこの状況でも休めない人の声など、誰が「しわ寄せ」を受けているのかも見えやすくなっている。反対に、エリートたちが上げる「私は中流だ」という声も、SNSによって相対的な視座が多く寄せられることで、かつてほどの説得力を持たなくなってきている。

 

いま、社会が大きな混乱のなかで余裕を失っていることで、広く浸透していた「みんな中流」意識が覆い隠してきた「自由の影の部分」が露わになっている。私たちはこの影をまっすぐに見据えるのか、それとも再び不可視化するための別の方便をこしらえるのか、どちらの道を選ぶのだろうか。

その答えは、この混乱が収束したあとで明らかになるだろう。