東大生さえも無自覚に縛られる「みんな中流」意識の危うさ

東大入試問題から考える「格差と責任」
御田寺 圭 プロフィール

「公平な競争」という幻想

安定的に運営されているときにはほとんどが可視化されないだけで、私たちの社会は、表立って語られることのない多くの人びとの地道な負担、あるいは犠牲によって成り立っている。そうした語られざる犠牲の物語は、都心部に林立する高層ビルの上や、富裕層・知識層が暮らす高級住宅街、その子弟が集う象牙の塔の中からはなかなか見えづらい。

ひとたび社会が動揺したり経済が後退したりして「余裕」が失われていくにつれ、普段は隠されていた「差」が顕在化する。「だれが得をしていて、だれが損をしているのか」が、だれの目にも次第に明らかになっていく。「みんな中流」という虚構の崩壊が見えてくる。

この崩壊の過程において、自分が「得をする側」の立場にあった場合、それを認めるのはなかなかに容易ではない。なんとかして「中流」の中に留まろうとし、「自分も他のみんなと同じスタートラインからフェアな競争に参加し、努力によって現在のポジションを獲得したのだ」とアピールしたがるのは当然のことだ。

たとえば、前述したとおり東京大学に通う学生の親たちは、7割以上が年収750万円以上の高所得層である。しかしそうした家庭出身の学生も、「自分は中流の出身だ」としばしば考える。

そう考えれば「自分は恵まれた環境のおかげで、他の人より有利な条件で競争に参加でき、その結果東京大学に入ることができた」などと考える必要はなくなる。「これは純然たる自分の努力の成果だ」という物語を正当化できる。

 

東大生や東大卒の方々が気を悪くされたなら申し訳ないのだが、もっとも、これは東大出身者にかぎる話ではない。「自分は中流」「だから公平な競争に勝っていまのポジションを得た」という考え方は、この社会のエリート層に広く、そして根強く浸透している思考様式でもある。

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