東大生さえも無自覚に縛られる「みんな中流」意識の危うさ

東大入試問題から考える「格差と責任」
御田寺 圭 プロフィール

「年収950万円以上」が半数の世界

しかし、このような建前を素朴に信じている人は、今日ではそう多くはないだろう。個人の能力にかかわる条件が平等でないことも、もはや多くの人が知るところとなっている。

たとえば生まれた家庭の環境、経済状況によって、学力・学歴には大きな格差が生じる。東京大学に通う学生の親たちは、その7割以上が年収750万円以上の高所得層である。950万円以上に絞っても5割以上だ。ちなみに、日本全体では所得1000万円以上の世帯の割合は12.2%である(厚生労働省「平成30年 国民生活基礎調査」)。

東大生の世帯の年収額分布(東京大学「2018年(第68回)学生生活実態調査報告書」より)

近代社会の「平等」という神話を下支えしてきた「努力」についてさえも、行動遺伝学や発達心理学の知見が深まるにつれ、遺伝的要因がさまざまに影響していることが明らかとなってきた。現代社会がこれまで「差別」と定義し、きびしく糾弾してきた「人種や性別や国籍による扱いの差」に引けを取らないくらいには、「個人の能力差による序列化」も差別的なのだ。

 

しかし私たちが、このような「個人の能力差による序列化」を差別であると認めることは難しい。なぜならそれは、現在の私たちが謳歌する「自由」の副産物でもあるからだ。もしこれを「差別」と規定し、克服しようとすれば、私たちはいま享受している「自由」の一部を返上しなければならない。そんなことはだれも望まないだろう。

私たちは「自由を妨げるもの」を「差別」として突き崩すことは得意だったかもしれないが、「自由そのものが差別を作り出す」という事実からは目を背ける。

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