映画公式HPより

映画『Fukushima 50』が日本人にもたらす思わぬ副作用

あの時、自分ならどう行動したか

心に残る素朴な疑問

3月6日、映画『Fukushima 50』が全国で封切りとなった。門田隆将氏の珠玉の作品『死の淵を見た男』を原作に、KADOKAWAが渾身の力と膨大な制作費をつぎ込んで作った映画だ。

9年前、千年に一度と言われた大津波が東北地方を襲い、福島第一原子力発電所で全電源喪失という過酷事故が起こる。『Fukushima 50』はその後の5日間の事故現場の様子を映画化したものだ。

原発内のテレビ会議を行った緊急時対策室や、放射線の立ち込めた建屋の内部、さらに津波で破壊された建物やその周辺の景色までが忠実に再現してあり、見る者はまず、セットのダイナミックさに驚く。それどころか、トモダチ作戦のシーンは米軍横田基地で撮影され、本物の米兵まで出演している。

当時、福島に、いや、日本に、放射能汚染という大惨事の危機が迫っていたとき、この未曾有の事態に対処したのは、東電のごく普通の社員たちだった。『Fukushima 50』では、彼らの行動や感情を、克明に、なるべく真実に近く描写するため、監督から俳優までが弛み無い努力をしたという。

だからこそ完璧なセットも作られたし、ベテラン役者も勢ぞろいしている。福島で戦った無名の人間たちの真の姿を、絶対に後世に伝え残さなければならないという製作者全員の気合が、見ている者にもひしひしと伝わってくる。

おそらくそのせいだろう、鑑賞後に心に深く残るのは、映画のスケールの大きさよりも、限りなく静謐な感情だ。気がつくと、観客はいつの間にか、「自分ならどう行動しただろう?」という素朴な疑問と向き合っている。そして最後は、皆がその疑問を心の中で転がしながら、家路に着くといっても大げさではない。

人間には、その場になってみなければ、自分がどういう感情に捉われ、どう行動するか、皆目見当がつかないという状況が稀にある。当時、あの現場にいた人たちが見舞われた状況というのがまさにそれだった。彼らは突然、「自分は死ねるかどうか」という究極の選択を迫られた。

現代日本では、病で死を覚悟するとか、とっさに人を助けた結果、図らずも命を落とすということはあり得ても、何かのために敢えて死ぬ覚悟をするなどという状況はまずない。ましてや、国を守るための死といった可能性など、脳裏を掠りさえしない。

 

ところが、あのとき福島では、ごく普通の社員たちにそんな想定外の状況が降って湧いた。皆、それぞれ家族もいただろう。まだしたいこともあっただろう。しかし、彼らの思考は単純だった。果たすべき責任があるからそこに残る。しかも、その決断をしたのが50人というのが衝撃的だ。私は、この衝撃こそが映画『Fukushima 50』の核だと思っている。

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