「なにを差し置いても祈りなさい」

幸せになりたいのなら、願いを叶えたいのなら、なにを差し置いても神様に祈りを捧げなさい。これが祖母の口癖だった。祈りは、神様への忠誠心の表れ。遊んでいる暇があるならば、一分でも一秒でも多く祈りを捧げること。そうすることで、誰よりも幸せになれる。そう教えられていた。

幼少期のぼくはやさしい祖母のことが大好きだったので、彼女の言葉を疑うことすらしなかった。朝起きたら、まずは神様に向かってお祈りする。その前に朝ごはんを食べようとすると、祖母からこっぴどく叱られてしまうのだ。

夜のお祈りは長い。教本に書かれている祈りの言葉を全部読み上げると、たっぷり1時間はかかる。もちろん、休憩なんて許されない。小学生のぼくにとって、それは苦痛な時間でもあった。けれど、お祈りすれば、祖母が褒めてくれる。

「おばあちゃん、今日も神様にお祈りしたよ」
「偉かったねぇ。あんたは自慢の孫だよ」

祖母に褒められるたび、ぼくは満ち足りた気持ちになった。

お祈りは毎日朝晩長時間に及んだ。でも祖母が喜んでくれることで、一生懸命祈りたいと素直に思っていた(写真の人物は本文と関係ありません) Photo by iStock

中学生までのぼくは、勉強がそれなりにできた。成績上位者として名前が発表されることも珍しくなかった。けれど、それも祖母はすべて神様のおかげだと思っていた。

試験の前には、祖母と並んでお祈りをするのが恒例だった。力強く祈りの言葉を口にする祖母の隣で、正座をして手を合わせる。ときにはそれが3時間も続くことすらあった。もちろん、途中でクタクタになってしまう。でも、決して投げ出さなかった。神様をおざなりにすることで、もしも不幸が降りかかってしまったらどうしよう……と恐れにも似た気持ちを抱いていたのだ。

ところが、そんな忠誠心も、高校生になる頃には少しずつ薄れていった。それまでのように勉強についていけなくなったこと、友人関係がうまくいかなかったこと、原因は些細なことだったと思う。でも、どんなに一生懸命祈っても、状況が好転しない。その事実が積み重なり、ぼくのなかに根付いていた信仰心は徐々に疑いへと変貌していった。神様って、本当にいるのだろうか。