赤ヘル打線「最後のピース」高橋慶彦が走りまくった、カープの1979年

足を武器にプロの世界を生き抜いた男
週刊現代 プロフィール

怒られても、蹴られても、黙々と耐える。それは、高橋自身が古葉が自分にかけている期待の大きさを、ひしひしと感じ取っていたからだ。

「俺は、最初二軍では外野手としてレギュラーを獲ったんです。でも、一軍にはレフト・水谷(実雄)さん、センター・山本さん、ライト・ライトルとバリバリの主軸が揃っていて、外野のままではとても出番がない。

そこで、古葉さんは俺を試合に出させるため、わざわざショートに戻した。

後で聞いたら、周りは守備がおぼつかない俺に要であるショートを守らせることに大反対したらしい。

でも、古葉さんは俺を1番打者に育てると心に決めていたそうで、『お前の芽が出るか、俺がクビになるか、どっちかやな』と。そんなん言われたら、命を賭けて練習するしかない」(高橋)

「俺はヘタだったから」

古葉の期待に応え、最強の先頭打者になるべく、高橋は来る日も来る日も猛練習に打ち込んだ。

当時から、12球団でも有数の練習量をこなすと言われていた広島において、高橋の練習量は群を抜いていた。

 

「キャンプ地の日南の球場でも、いつも慶彦が真っ先に来て打ち込みをしていた。全体の練習が終わると、また19時に来て黙々と打ち込んでいる。翌朝はまた8時から。

'79年当時、新人だった達川(光男)に『慶彦くらい練習せんか』と言ったら、『あんなやったら胃から汗が出る。試合に出られないですよ』とボヤいていたのを、よく覚えています」(前出・駒沢)

高橋はひたすらバットを振り続けた。バットを持ったまま寝床につき、無意識のうちに素振りをしていたことすらあったという。