3月 7日 青函連絡船の就航(1908年)

科学 今日はこんな日

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。

"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

青森港と函館港を結ぶ青函航路が定期航路として開設されたのは1873年。当初は民間企業と北海道開拓使が競合する路線でしたが、1908年のこの日に帝国鉄道庁(当時、のち国鉄)が直営航路とし、青函連絡船を就航させました。

 

それに先立って、鉄道路線の整備が進んでいました。1891年に上野から青森まで、1904年には函館から小樽までが全通。そのため、本州と北海道の鉄道を連絡する青函航路を国鉄が営む必要性が増していたのです。

1908年3月7日に就航した第1船は、英国の造船所で作られた蒸気タービン船、比羅夫(ひらふ)丸。1480トン、最大速力18.36ノット、旅客定員328名の最新鋭船で、青森港を10時に出て函館港に14時に着きました。次いで4月4日に田村丸が就航し、1日2往復の体制が整います。

比羅夫丸比羅夫丸(阿倍比羅夫から名付けられた。ちなみに田村丸は坂上田村麻呂から)の絵はがき Photo by Public Domain

1910年に日本郵船が青函航路から撤退したことで、国鉄の独占となった青函連絡船は輸送量を飛躍的に増加させていきます。1910年度に22万3524名だった旅客数は、1913年度には31万4571名に伸長。その後も貨物船の就航や比羅夫丸の貨物用船倉の客室化などの施策に、第一次世界大戦による好景気も加わって、1919年度の旅客数は70万5055名を記録しました。

また、就航当初は港湾設備が整っておらず、旅客は港の数百メートル沖合に停泊した連絡船からハシケを使って乗降していました。函館港は1910年に、青森港は1923年に桟橋が整備されたことで、港に直接接岸する連絡船を経由して、スムーズに鉄道へ乗り換えができるようになったのです。

その後、青函連絡船は1945年7月には米軍の空襲の標的とされ、貨物船を含む10隻が沈没。旅客52人が死亡、乗員336人が殉職します。

戦後の1954年には台風により1430名の犠牲者を出す洞爺丸事件が起きるなど、さまざまな困難に見舞われましたが、本州と北海道を結ぶ動脈としての役割は大きく、旅客数は伸び続けます。ついに1973年、その数は498万5695人を記録し、ピークに達することとなりました。

青函連絡船函館港での見送り風景 Photo by Kodansha Photo Archives

しかし、それ以降は航空機とフェリーに需要を奪われ、1980年代後半には年間200万人程度にまで利用者数が低落。1988年に廃止の日を迎えることとなりますが、くわしくはその日、3月13日の本コーナーで紹介いたします。