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『麒麟がくる』主人公、明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたか

戦国時代史研究・第一人者が明かす真相
小和田 哲男 プロフィール

また、「天下取りの野望説」といわれるものもある。さらには突発説とか偶発説といわれる考えも出されているが、下火となっているという印象がある。それらに代わって浮上してきたのが黒幕説で、朝廷黒幕説・足利義昭黒幕説といったものが取り沙汰されている。

私自身は、光秀が誰かに操られて本能寺の変を起こしたという考えには反対で、むしろ、光秀なりの究極の危機管理が本能寺の変だったのではないかとみている。

私がそのように考えた根拠の一つは、本能寺の変が起こったその日六月二日付の光秀書状の存在である。この書状は現在、原文書はなく、江戸時代前期の儒者であり兵学者の山鹿素行(やまがそこう)が著した『武家事紀』に所収されているもので、文面は次の通りである。

父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城相済まさるべく候。委細、山田喜兵衛尉申すべく候。恐々謹言(読み下しで引用)。

 六月二日  (天正一〇年)
 
西小 御宿所  

宛名の「西小」というのは、美濃の野口城(岐阜県大垣市)の城主西尾小六郎光教のことである。「父子」はいうまでもなく、織田信長・信忠父子のことで、その「悪虐」は天下の妨げをなすので、討ち果たしたといっている。

 

「言い訳をいっているに過ぎない」といわれればそれまでだが、このころの公家の日記にも、信長が暦に口出しをして、無理難題をいっていると書かれており、また、羽柴秀吉の応援に行くよう命じられたことで、左遷を意識したことも十分考えられる。

よって信長の悪政をストップさせるための下剋上とみることができる。戦国時代にあって、下剋上は一種の「世直し」の意味ももっていたのである。