機体の下面に特攻機「桜花」を抱いた一式陸攻

【戦争秘話】人間爆弾「桜花」隊長が終戦後に受けた「謎の秘密指令」

日本の独立を守るための「密かな策動」

元号が令和と変わってほどない昨年(2019年)7月20日、一人の元海軍士官が世を去った。湯野川守正(1921-2019)。「人間爆弾」と呼ばれた特攻機「桜花」隊指揮官の、最後の生き残りだった。音楽評論家・湯川れい子氏の実兄でもある。

湯野川は戦後、航空自衛隊に入り空将補まで勤めたが、終戦間もない頃には海軍から密命を帯び、本籍地と名を変え別人として潜行していた時期がある。戦後史の空白とも言える海軍の密命と潜行の一部始終を、湯野川は生前、筆者に語り残していた――。

 

一機で一艦を屠る「帝国海軍の最終兵器」

格納庫に置かれた特攻機「桜花」を見て、第七二一海軍航空隊に着任した23歳の湯野川守正中尉(のち大尉)は、「ずいぶん単純な飛行機だな」と思った。と同時に、「しかし、敵艦に命中すれば威力は大きいだろう。いまの日本にこれしかできないのなら仕方がない。おもしろい、こいつで戦ってやろうじゃないか」と決心した。

現在の茨城県鹿嶋市と神栖市にまたがる神之池基地。戦況が決定的に不利となり、戦争の帰趨が誰の目にも明らかになった、昭和19(1944)年11月のことである。

桜花は、1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して、敵艦に体当りすべく開発された超小型の飛行機で、「人間爆弾」とも呼ばれる。母機の一式陸上攻撃機に懸吊されて敵艦近くまで運ばれ、投下されると主に滑空で、ときには装備したロケットを噴射して、搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。文字通り一機で一艦を屠ることを目的とした、帝国海軍の最終兵器だった。

「人間爆弾」とも呼ばれた特攻機「桜花」

湯野川は大正10(1921)年、羽州米沢藩士の血を引く海軍大佐湯野川忠一の次男として、父の勤務先だった長崎県佐世保で生まれた。のちの聯合艦隊司令長官・山本五十六大将のの妻・禮子は、湯野川の父のいとこにあたる。幕末・維新の戊辰戦争で、米沢藩と越後長岡藩が同盟関係にあったよしみから、長岡出身の山本と縁戚関係になったのだという。

桜花隊分隊長だった湯野川守正氏(右写真撮影/神立尚紀)

昭和14(1939)年、東京の麻布中学校を出て、広島県江田島の海軍兵学校に七十一期生として入校。卒業後は戦艦「伊勢」に乗組み、さらに軽巡洋艦「阿賀野」水雷士としてソロモン諸島で戦ったのち、第四十期飛行学生となった。練習機教程を経て、大分海軍航空隊、筑波海軍航空隊で、戦闘機搭乗員としての訓練を受けていた。

湯野川が筑波海軍航空隊にいた昭和19(1944)年8月中旬、「必死必中の新兵器」の搭乗員の募集が行われた。新兵器の詳細は伝えられなかったが、フィリピンで初の特攻隊が編成される2ヵ月前のこの時点で、体当り攻撃はすでに海軍の既定方針だったのだ。

「大きな国難のなか、決死の覚悟は搭乗員ならひとしく持っていたと思いますが、一撃で死に至る任務にはやはり、多少の躊躇(ちゅうちょ)はありました。しかし、尋常な手段では勝てない戦争だとは自覚していたから、それがどんな兵器かはわからないが、有効な兵器があるなら結構なこと、これを立派に使ってやろうと決めました。もし戦争に負けるにしても、負けっぷりというのはあると思っていましたからね。

たった一つの命、それを有効に使ってやろうという気持ち。母が悲しむだろうとか、いろんなことが頭をよぎりましたが、私は次男で最初から戦死要員のつもりだったから、2時間ぐらいで悩むのをやめました」