釜石・神戸の復興に尽くしてきた伝説のラガーマンたちの感動の軌跡

還暦越えのV7戦士たちが神戸で再戦
大友 信彦 プロフィール

秩父宮、釜石開催を経て「今度は神戸で」

その3ヵ月後、2012年9月23日。東京・秩父宮ラグビー場で、夢の試合が行われた。

「東日本大震災復興支援・V7戦士チャリティマッチ」。

試合に会わせて製作されたプログラムの表紙には「鉄人集う。ともに、前へ」の文字が躍った。

2012 年 9 月。初めて実現した釜石神戸 OB マッチ@秩父宮

松尾雄治と平尾誠二は、1984年度の日本選手権(新日鐵釜石対同志社大)以来、28年ぶりで同じピッチに立った。

1970年代、日本代表の司令塔として活躍した釜石の松尾雄治
故平尾誠二も、秩父宮のOB戦では元気な姿を見せていた

試合は、阪神淡路と東日本、両方の震災の犠牲者へ黙祷を捧げて始まった。平均年齢は50歳超。最年長は62歳という両チームの選手たちは、降り続く雨の中、芝の上を走り、パスを放ち、タックルを見舞った。

20分ハーフの試合を戦い終えると、被災地支援の継続を訴える横断幕を掲げて場内を一周した。試合後には選手自身が募金箱を持って被災地支援を訴えた。1時間あまりで43万円の浄財が集まった。

 

2015年3月、釜石と神戸はともにラグビーワールドカップ日本大会の開催地に選ばれた。開催都市発表会見の席に座っていた平尾は「釜石」と読み上げる声を聞いたとき、弾けるような笑顔を浮かべた。「釜石でワールドカップがあったら絶対いきたいよ」という平尾の言葉が蘇った。

2015 年 3月、W杯開催会場決定の日の平尾(左端)

平尾はその後、病に襲われ、2016年10月に53歳の若さで亡くなった。

それから1年10カ月後の2018年8月、平尾が背中を押した釜石のワールドカップスタジアムが完成した。夢のスタジアムのオープニングという記念すべき日に、ふたつのチームのOBは再び集った。

2018 年 8 月、釜石鵜住居スタジアムの開場記念試合で実現した 2 度目の OB 戦
往年の名プレーヤーたちの奮闘にスタジアムは多いに盛り上がり、観客席には大漁旗が翻った

東日本大震災の津波で全壊した小中学校跡地に建設された、ワールドカップのためのスタジアムには、市内外からつめかけた満員6000人の市民らが集まり、あの頃の国立競技場と同じように、大漁旗を振って声援を送った。

「平尾もいればもっとよかったんだけどなあ」と松尾は言った。

「きっと空から、ホラさん(洞口)たちと一緒に見てますよ」と、ふだんは無口な石山次郎が返すと、誰もが頷いて空を見上げた。空は、あの頃の国立競技場から見上げたように晴れわたっていた。

試合を終えると、選手たちは釜石ならではの海鮮バーベキューによるアフターファンクションで旧交を温めた。

花巻空港発の飛行機にあわせ、慌ただしくバスに乗り込む神戸の選手たちは当然のように、「今度は神戸で」と声をかけた。