釜石・神戸の復興に尽くしてきた伝説のラガーマンたちの感動の軌跡

還暦越えのV7戦士たちが神戸で再戦
大友 信彦 プロフィール

釜石の人々の背中を押した平尾誠二の金言

1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生した。6434人に達した犠牲者のうち、7割を越える4571人を神戸市が占めた。その中でも最も多い1470人の犠牲者を出したのは、神戸製鋼ラグビー部のグラウンドがある東灘区だった。緑の芝が輝いていた灘浜グラウンドはそこらじゅうに地割れが走り、液状化で噴き出した泥水で覆われていた。そこは間もなく、瓦礫置き場と化した。

 

そして、2011年3月11日には、東日本大震災が発生した。岩手県の港町・釜石は大津波に襲われ、3万人台の人口のうち1000人を越える死者・行方不明者を出す壊滅的な被害を受けた。新日鐵釜石ラグビー部からクラブ化された釜石シーウェイブスの本拠地、松倉グラウンドは内陸にあり津波の被害を逃れたが、救急搬送用の臨時ヘリポートに転用された。

2011 年 4 月、釜石の松倉グラウンドはヘリポートと化していた

深刻な被害に見舞われた被災地で、ラガーマンたちは支援のために奮闘した。

神戸製鋼のラガーマンたちは、1階が潰れた社宅で、ドアが歪んで開かなくなった部屋の窓をこじあけて部員の家族を助け出し、倒壊した近隣の家屋に閉じ込められた人たちを救出した。

釜石のラガーマンたちは、濁流に飛び込み、津波に呑まれ動けなくなったクルマの窓をたたき割って逃げ遅れた人を救出し、腰まで濁流に漬かってロープを摑み、避難を誘導した。全国から届いた救援物資の搬出入や、停電でエレベーターの止まった病院や介護施設で、病人を担ぎ、運ぶといった力仕事に、鍛えあげた太い腕と強い足腰を差し出した。

どちらの被災地でも、ラガーマンたちは救命士と呼びたくなる働きをみせた。

ラグビー、鉄、V7、赤いジャージー。いくつものキーワードを共有する2つの伝説のクラブは、手を携えて震災からの復興を目指した。新たに加えられたキーワードは「ワールドカップ」だった。

東日本大震災から4ヵ月が過ぎた2011年7月。神戸製鋼灘浜グラウンドで開かれたチャリティフェスタには、新日鐵釜石の司令塔として活躍した松尾雄治が招かれた。

平尾誠二とのトークショーでステージに上がった松尾は「まだ雲を掴むような話なんだけど」と断ったうえで、震災後に立ち上げた復興支援組織「スクラム釜石」が、釜石に2019年のワールドカップ日本大会会場のひとつを招致しようと活動を始めたことを明かした。

それを聞いた平尾は、間髪入れず「それ絶対いい! 釜石でワールドカップが開かれたら僕絶対に行きたいもん。釜石と神戸と、仙台なんかも一緒になって、被災地から復興の狼煙を上げたらエエですね」と言い切ったのだ。

震災から4ヵ月。まだ仮設住宅どころか、避難所の体育館で暮らしている人も多い時期。そんな夢物語を口にして良いのだろうか……だれもが逡巡していた時期に、おそるおそる願望を口にした松尾に、平尾は全面的に賛同したのだ。

その翌年、2012年6月、神戸製鋼はチーム一同で釜石を訪問。神戸の選手たちは釜石の選手たちとともに瓦礫撤去作業とラグビー教室のボランティア活動を行い、GMの平尾誠二は釜石市民とのタウンミーティングに出席した。その席で平尾は言った。

「スポーツイベントがあると、広告代理店が『経済効果は何百億円』とかそういう数字を出してくる。でも僕に言わせたら、価値はそんなものじゃない。これから7年間、地域の人たちが夢を持って過ごせる。その価値の方がずっと大きい」

2012 年 6 月、釜石で瓦礫の撤去作業に力を振るう神戸の選手たち
タウンミーティングでは、平尾誠二が釜石へ力強いメッセージを送った

平尾自身、神戸で震災を経験し、復興を経験した。その平尾の発した言葉は、逡巡を抱えた釜石の人たちの背中を押した。