前編( 『スター・ウォーズ』は40年かけて何を描いたのか、一つの答え)の最後に、スター・ウォーズのフォースをめぐる闘いには、トートロジーが含まれていると述べた。トートロジーだというのはこういうことである。
フォースのダークサイドが悪の帝国を生み出す。
それに対し、そうした悪の使用を阻止する(否定する)のが正しいフォースの使い方である。
だが、もしそうだとすると、正しいフォースは、悪ではない(否定)ことによってその正しさを説明していることになる。
正しさを正しさとして説明するのは難しい。正しさは、悪ではない(否定)ということでしか説明できないのである。
フォースのウラ面がダークサイドだったはずが、そのダークサイドのさらにウラ面がフォースの正面になり、ダークサイドこそが実はそのウラのウラ、つまりオモテになっているというわけだ。
フォースのオモテ・ウラは、互いに互いを否定しあって自分の存在を規定している。
要するにどちらもオモテ、すなわち真なのである。
だから互いに否定すべき相手を自分自身に組み込んでもいる。つまり悪には善が、善には悪が現れる。
前編で引用したマックス・ウェーバーの権力の定義も実はこのことを示しており、それを振り返ればこうなる。
純粋な正義などない。社会には、支配する者と支配される者がいるだけだ。そこには権力があるだけなのだと。
権力は人の自由を奪う力である。正義の観点から見ればそれは否定されるべき力だが、その力によって社会秩序は実現する。だがその秩序が成立することで、正義や善は失われるというわけだ。
善も悪もどちらも正しく(トートロジー)、またどちらも間違っている(矛盾)。
ウェーバーはこうした現実主義を徹底して、彼のいわゆる「支配の社会学」を構築したが、繰り返すように今もなおその論理の骨格は否定されていない。