3.11後の東北をただ車で通り過ぎた私の「大きな怒り」

失われた小説をもとめて【7】
藤田 祥平 プロフィール

勝手に正気でなくなった

あまりにも景色が超現実的なために、私は勝手に正気でなくなってきた。

もちろん夏だから、エアコンをかけているだけなのだが、すれ違う車のすべての窓がきっちり閉まっているのに、腹が立ってきた。この区域をただ通り過ぎることと、ここに留まって作業をすることのあいだにはもちろん大きな違いがあるのだが、ガードマンの全員が、貧相な、市販の、どこにでもあるようなマスクをつけているのに腹が立った。なにかこの場所が、あらゆる観点から特別扱いされていることが、いやでたまらなくなってきた。この街の名前が、聖なるもの、あるいは呪わしいものとして、私の脳裏に刻まれていることが、我慢ならないように思った。ここは私が見てきたすべての街々のどの街でもありえたのだ。にもかかわらず、それは私の街でも、あなたの街でもなかった。七年間避難したままここに帰ってこられない人々の人生は私のものではなく、また、あなたのものでもなかった。それは、ほかの誰かのものなのだ。私はここを通り過ぎていくだけだった。ここで除染作業に身を捧げるほどに関わりがあるわけではない。私は作家なのだ。私には関わりがない。

私は街に入るための通行証を取らなかった。そうしようと思えば、できただろう。ねばりづよく電話をかけて、私はこういう人間で、ぜひこの目であなたがたの街を見たいのですと伝えれば、きっと気持は通じただろう。しかし私はそうしなかった。というのも、それは私の人生ではないからだ。私は第二次大戦を経験したことがないし、神戸の震災のときには四歳で、猫の形の花瓶が割れた瞬間の記憶しかない。ペストの恐怖に怯えたこともなければ、チェルノブイリに住んでいたこともない。そうしたことを語る権利を、あるいは語るための動機を、私は持たない。

 

東日本大震災が起きたとき、私は京都にいて、大学のカフェでコーヒーを飲んでいた。なんだかふらふらするので、あれ、風邪を引いたかなと思った。それで背もたれに背中をあずけて、ふと天井を見ると、そこから吊り下げられたたくさんの灯りが、とてもゆっくりと揺れていて、不思議だなと思った。その程度なのだ。あの震災は私から直接的にはなにひとつ奪っていきはしなかった(テレビに映された津波にのみ込まれていく田畑の映像が、もうずいぶん悪くなっていた私の母の鬱病の症状を進めたことは確かだが)。それは私の人生を構成していないのだ。

にもかかわらず私は猛烈に腹を立てていた。勝手に正気でなくなっていたのである。私は片手でハンドルを握ったまま、片手でアルミニウムの板を車内のステレオにつなぎ、音楽をかけ、音量のつまみを最大にした。それから窓を全開にして、煙草に火をつけ、肘のところから煙草を持った手をだらりと下げ、音楽にあわせておもいきり歌った。

かつて私がまともな会社に勤めていたころ、大阪の、阪神高速一号環状線のあわただしい車列のブレーキライトの濁流と、私の人生になんらかの形で関わっているかもしれないが巨大すぎて認識できない、運転者にむけたネオン広告の無数の連続のなかで、暗い気分を吹き飛ばすためにそうしていたようにに、力をこめて、大声で歌った。

歌っていた曲は、こんなふうである。