3.11後の東北をただ車で通り過ぎた私の「大きな怒り」

失われた小説をもとめて【7】
藤田 祥平 プロフィール

どこにもないような道

仙台から東京までをつなぐ国道6号線は日本海に面した細長い平野のまんなかを行く道で、それまで走ってきていた北海道の山間や三陸海岸の急峻とはうってかわって、広々とした青空がどこまでも続いていた。いままでの人生で、大阪を起点に、山陽道、九州北部、山陰道、北陸道、東北一円、北海道、三陸と走ってきたことになるが、このような道は、ほかにどこにもないように思った。

交通の流れはじつにスムーズで、走っていて気持ちがよかった。私はラジオの曲にあわせて歌った。

どこかの時点で福島県に入った。看板がそう告げた。

青空にはなんのちがいもなかった。当然である。

〔PHOTO〕iStock

福島県双葉町はかなりの部分が帰還困難区域に含まれるが、街の中心を縦断する国道6号線は、四輪車であれば通行することができる。二輪車、歩行者は通行できない。また、四輪車であっても、帰還困難区域のなかで停車したり、下車したりすることはできない。

事前に調べたが、街に入るためにはしかるべきところに申請書を出し、通行証を取得する必要があった。その通行証は、当然だが、誰にでも出しているものではないようだった。メディアとして申請するか、街に住んでいた世帯の人間でなければならないらしい。

私はそのどちらでもなかった。

 

国道から逸れて町中へとつづく脇道にはすべてバリケードが設置されており、ガードのひとびとがそこを守っていた。

路上の掲示板には路面状況や交通状況のかわりに放射線量が表されていた。

国道沿いによくある商店の類い、ガソリンスタンド、飲食店、電気屋、服屋、パチンコ店、コンビニエンスストアなどなどは、すべて閉店していた。いくつかの店の窓ガラスが割れ、建物そのものが風化し、雑草が生え放題になっていた。

あるところで作業用のトラックが何台か国道を横切るので、私は停車した。ところで、私の前後を走っていた車も、ほとんどトラックばかりだった。トラックにくらべると私の車はじつに小さかったので、私はなにかの間違いで上級生のグループに混ぜられてしまった子供みたいな気分になった。

線量はだいたい毎時2マイクロシーベルトだった。

私はなんとかして街の奥のほうまで見えないものかと身をひねったり、窓から顔を出したりしてみたが、伸び放題になった草木とバリケードのために、よく見えなかった。