3.11後の東北をただ車で通り過ぎた私の「大きな怒り」

失われた小説をもとめて【7】
藤田 祥平 プロフィール

猛烈な嫌悪感

快眠で、とても気分がよかった。私はシャワーを浴び、服を着て、伸びをして、ホテルの窓から仙台の街を見下ろした。

人々がせわしなく行き来し、交通も多かった。

私は興味を覚えて、そうした人々の流れをしばらく眺めた。

誰もがみな、やるべきことをやるために、行くべきところへ向かっている、と私は思った。

そのとき、私は猛烈な嫌悪感を感じた。

 

その嫌悪感は鬱病の発作に似ていたので、私は深く深呼吸をした。それから、自分のための自作の念仏を心のなかで黙読した。それはつぎのようなものである。

「大丈夫だ。おれにはすてきな友達がいて、好きな本やビデオゲームも山ほどある。発作が起こることだってあるさ、理由なんてないんだ。そういうこともあるんだよ。

怖がらなくたっていいんだ。みんな元気に、それなりに暮らしていて、幸せにやっているよ。大丈夫だよ。きっと大丈夫。どんなに辛いことがあったとしても、それはそれとして、幸せなこともあったし、これからも辛いことと、幸せなことが、やってきたり、こなかったりするだろう。すべては起こるんだ。ただ、起こるんだ。理由なんてないのさ。すべては、そういうものなんだ。だから、大丈夫なんだ。」

この念仏は、いつもどおり効果てきめんだった。

ただ、それはそれとして、さきほど感じた嫌悪感そのものは、私にとってじつに新しい感覚だった。そんなふうな感じがしたことは、一度もないか、それともずいぶん長いあいだなかったように思われた。

嫌悪感というのも、便宜上の言い方にすぎない。その感覚をよく吟味したところ、嫌悪感という言葉が表すものにいちばん近いように思われるから、当てはめてみているだけだった。

その感覚の起こりかたは、ある花の香りをたまたま嗅いで、その花を何十年もまえにおなじようにして嗅いだことを思い出し、それによって記憶の栓が抜けて、さまざまな思い出が蘇ってくるような感じだった。しかし蘇ってきたのは思い出ではなく、ある感覚なのだ。

それから私は静かに、この感覚の原因を探り当てようとしたが、どうもうまくいかなかった。考えてみると、鬱病の発作のときのように、死にたい、とは思わなかったのだ。

私はちょっと困惑しながら、部屋から出て、フロントでチェックアウトをし、車を出した。