3.11後の東北をただ車で通り過ぎた私の「大きな怒り」

失われた小説をもとめて【7】
藤田 祥平 プロフィール

無数の慰霊台、献花、地蔵

ずっと曇っていたから、時間はわからない。石巻市にたどり着いたころには、まだ空は明るかった。この街にはたくさん建物があり、海際には工場街があった。これらの巨大な建物群のうちには、日本製紙の工場がある。私のはじめての小説も、ここでつくられた紙に印刷されたはずである。

私は工場街の近くで駐車し、両手を合わせた。

人々に愛着をもって呼ばれていた名前をもつ海岸は、すべて石棺によって塞がれていた。それらの壁の近くには、無数の慰霊台があり、無数の献花があり、無数の地蔵があった。ひとつひとつに祈っていくことはしなかった。あまりにも数が多すぎたのだ。かつて北野武はつぎのようなことを言った。三万人の人が死んだのではなく、ひとりの人間の死という出来事が三万回あったのだ。ヴィトゲンシュタインはつぎのようなことを言った。天災や戦争によって死んだ人間の数を知り、それらの魂の苦しみの総量を思って圧倒されることには意味がない。なぜなら、ひとりの人間の個人的な苦しみこそが、人類の苦しみの可能な上限であるからだ。

〔PHOTO〕iStock

無数の海岸線のうちのひとつで車を停め、そこにある街を歩いた。「つばめ食堂」という食堂で、ヒレカツ定食をたべた。私のほかに客はいなかったが、食べているうちに夫婦らしい年配のかたがふたりで来て、玉子丼と回鍋肉定食をそれぞれ注文した。それから私はさらに街を歩いた。歩いているあいだに見つけた商店で、缶コーヒーと、林檎を買った。その商店は、古き良き個人商店がある日思い立ってなんとかスーパーマーケットに進化しようと努力したのだが、途中であえなく頓挫し、わたしはわたしでいいさ、これでやっていこうと決意して第二の人生を歩み始めたみたいな店で、ちょっとした野菜や、鶏肉や、魚介類なんかまで売っていた。えらい、と私は思った。

 

林檎をかじりながら、さらに歩いた。その街のコンクリートの壁の前には祠があり、地蔵が祀られていた。そのわきにあった立て看板には、つばめ町へようこそ、ここにはかつて寺院がありましたが、いまはありません、けれども祠をたてました、いろいろなことがあったけれど、わたしたちはなんとかやっています、といった意味の文章が書かれていた。

私はそれを読み終えたあと、コンクリートの壁のむこうへ、林檎の芯を投げた。