戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」

英雄はなぜ自ら海軍を去ったのか
神立 尚紀 プロフィール

英雄と讃えられる一方で、誹謗中傷の渦

2月25日、蘇州上空の空戦の祝勝会が、上海の日本領事館で催された。野村長官はじめ陸海軍の将官、村井倉松総領事などの要人が居並ぶなか、主役はもちろん生田である。3月3日、停戦協定が成立すると、生田は、中佐クラスに匹敵する正六位の位階を授けられ、尉官(大尉、中尉、少尉)としては異例の、功四級金鵄勲章を授与された。

 

日露戦争の日本海海戦で、聯合艦隊司令長官としてロシア・バルチック艦隊を破り、なかば神格化された存在だった東郷平八郎元帥も、生田大尉に書を贈っている。

新聞が「撃墜王」「日本のリヒトフォーフェン(第一次世界大戦時のドイツの撃墜王)」などと書きたて、生田の乗機・三式艦戦は日本各地を巡回展示される。

ロバート・ショート撃墜後、日本各地を巡回展示された生田大尉搭乗の三式艦戦

歌手の四家文子が蘇州上空の空戦を歌った「空中艦隊の歌」がヒットし、浪曲や琵琶にも謡われる。日活では「制空大襲撃」、独立プロダクションの赤澤キネマでは「空中艦隊」と、映画まで制作された。

画家・和田三造が描いた空戦の模様。手前の3機編隊は艦攻隊、後方では空戦が繰り広げられ、ショート機が生田機に撃たれ、まさに黒煙を吐き墜落するところである。右下は表彰状、左上は東郷平八郎元帥より贈られた書

一躍、「時の人」になった生田大尉のもとへは、全国の女性からの「お会いしたい」「交際したい」という、いまで言うファンレターも山のように届いた。

「川島芳子とできている、という噂を立てられたこともありました。ご存知ですか? 女スパイで、『男装の麗人』とか『東洋のマタ・ハリ』と呼ばれた……。彼女とは上海の領事館の祝勝会で一度会い、親しげにワインを注がれただけなんですがね」

各方面からの招待や講演依頼も殺到し、とても軍務に集中できる状態ではなかったという。本来、こういうことは海軍が窓口となって仕切るべきだが、広報活動に不慣れだったか、海軍としても格好の宣伝材料と考えたか、世間の好奇の目から生田を守ろうとはしなかった。

自らの意思に関係なく英雄に祭り上げられた生田の人気が高まるにつれ、妬み、嫉み、誹謗中傷の声も渦を巻き始める。

「同期生が戦死したのに、生田だけいい気になっている」「あれは生田が墜としたんじゃない」「奴の腕などたいしたことない」などなど――。

これらの陰口、悪口雑言は、かなり後まで一人歩きをして、生田を苦しめた。

筆者がインタビューした古い――昭和初年に海軍に入った――戦闘機搭乗員の何人かは、こうした生田への誹謗の元は、「源田實の讒言(ざんげん)」によるものだと語っている。

昭和7(1932)年当時、霞ケ浦海軍航空隊分隊長だった源田大尉(のち大佐)が蘇州上空の空戦の戦訓調査に派遣され、この撃墜は生田の戦果ではないと報告したのだという。

のちに日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」の一番機をつとめ、自他ともに認める花形戦闘機パイロットでありながら、初戦果をクラスメートの生田に奪われた源田が嫉妬したのだ、との声もあった。

このことをいま、具体的に証明するのはむずかしい。当事者の間で、生田についてのよくない噂とともに、平成の時代までこんな話がまことしやかに語り継がれていたという事実のみを、記しておくにとどめておいたほうがよさそうである。

大口径の砲を搭載した戦艦同士の戦いで勝敗が決まるという「大艦巨砲主義」の思想が主流だった当時の海軍で、補助兵力に過ぎないと考えられていた飛行機搭乗員が脚光を浴びることに冷ややかな空気もあった。周囲が作り上げた自分自身の虚像に対する過剰な扱い、そしてそれに反比例するかのような海軍内部での孤立は、生田に重圧を与え、失望感を抱かせた。「日本初の敵機撃墜」の栄誉を手にした生田は、そのタイトルゆえに追い詰められていったのである。

生田には、すでに結婚を約束した女性がいた。だが、海軍大臣に提出した婚姻願いが却下され、入籍ができずにいた。

「海軍士官が結婚するときには海軍大臣の婚姻許可が必要でした。ところが、家内との結婚を、海軍大臣は許可してくれなかった。つまらないことですが、身元を調査して、家柄や家庭環境、学歴など、少しでも『海軍士官の妻としてふさわしくない』と判断されたら不可なんです。良家の子女で、高等女学校を出ていなくては駄目とか、水商売の家の娘は駄目だとかね……」

また、かつて訓練中に傷めた腰の状態も思わしくなく、搭乗員としての将来も危ぶまれる状態となっていた。

心身ともに疲れ果てた生田はついに海軍を辞する決心をし、昭和7(1932)年11月、休養届を出して自宅に引きこもった。

「時代の寵児」である生田の休養は、人事をつかさどる海軍省を驚かせた。生田は、海軍航空の大先輩で空母「加賀」副長の大西瀧治郎中佐(のち中将)をはじめ、上官からは慰留され、さらに海軍省にも出頭を命じられ、強い調子で翻意を促されたという。また、東郷平八郎元帥にも私邸に招かれ、海軍で人生を全うするよう懇々と諭されたが、決意は変わらなかった。