戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」

英雄はなぜ自ら海軍を去ったのか
神立 尚紀 プロフィール

太平洋横断を志した冒険野郎との空中戦

――ここまで語り終えて、生田は、私室の頭上に飾られている写真を見上げた。着陸直後の、生田大尉、黒岩三空曹、武雄一空の姿。3人とも達成感あふれる笑顔で写っている。だがこれは、小谷大尉の戦死を知らなかったからこその表情だったのだ。

この写真の撮影時、生田さんはまだ、クラスメートの戦死を知らなかった

数日後、撃墜されたボーイング218を操縦していたのは、交戦国ではないアメリカ陸軍予備中尉ロバート・ショートであったことが判明し、日本政府はただちに米政府に厳重な抗議を申し入れた。

日本機に戦いを挑み、撃墜されたアメリカ人パイロット、ロバート・ショートとはどんな人物だったか。

ひと言でいえば、太平洋横断の冒険飛行を志し、中国大陸に渡った男である。

生田とはわずか4ヵ月違いの1904(明治37)10月4日、シアトル近郊の生まれ。1928年、陸軍航空幹部養成所に入ったが家庭の事情で退役、民間航空会社を経て、陸軍予備航空団に籍を置き、予備少尉となった。

 

当時は、1927年、チャールズ・リンドバーグによる大西洋無着陸横断飛行の直後で、世界的に冒険飛行ブームたけなわの頃であった。残された太平洋横断飛行に対する関心も高まり、日本でも朝日新聞社などが懸賞金を用意して飛行家を募っていた。

ショートはこれに応じ、1931(昭和6)年4月、上海経由で来日する。ところが、使用飛行機の獲得競争に敗れてふたたび中国に戻り、ここで中華民国政府の要請で中国空軍の顧問となった。中華民国空軍は1929年11月に創設されたばかりだが、日本との関係悪化を受けて航空整備を急いでいた。

太平洋横断飛行は、昭和6年9月4日、日本の淋代(現在の青森県三沢市)を離陸したクライド・パンクボーンとヒュー・ハーンドンにより、翌5日、41時間12分におよぶ飛行の末、達成されている。

中国空軍の顧問として、ショートは、アメリカより新鋭機・ボーイング218(P-12Eの原型)を送らせた。昭和7年2月19日、この戦闘機を駆って所大尉の指揮する三式艦戦3機を翻弄したショートは、いささか自信過剰になっていたのかもしれない。そして、運命の2月22日を迎えたのだ。

中華民国政府は、中国のために戦い、死んだショートを英雄として扱い、中国空軍大佐の位を送った上で、国葬をもって送ることを決めた。国葬は、母のエリザベスと弟のエドモンドが船で上海に到着するのを待って、4月25日に盛大に執り行われた。

1932年4月25日、中国で執り行われたロバート・ショートの国葬

いっぽう日本側では、この空戦に関する戦訓調査が行われていた。空戦そのものは、ボーイング撃墜で幕をおろしたが、日本側も1名戦死、1名重傷の損害を被り、しかも飛行機の性能差は歴然としていたから、素直に喜べる結果ではなかったのだ。

だが、いざ調査が始まると、肝心の戦闘状況について、戦死した小谷大尉をのぞく、戦闘機3名、艦攻8名の搭乗員による報告が、なぜか一致しなかった。

艦攻隊は、艦攻の後方旋回機銃で敵機に白煙を吐かせ、撃墜したと言い、また、艦攻の機銃で白煙を吐かせた後、戦闘機の二番機、一番機の命中弾でとどめを刺したと報告した搭乗員もいた。生田は、

「私が射撃を開始したとき、ボーイングは無傷でした。機体もパイロットも完全な状態で、ガソリンも白煙も引いていませんでした。私の撃った弾丸が、パイロットと燃料タンクに命中したのです。わずか50メートルの距離で見ているんですから、間違いありません」

と言う。最後まで列機の攻撃の効果を確認し、いちばん理想的な攻撃をかけ得る位置にあった点、生田の証言は信用に値する。ところが司令部は、生田が強いて自分の戦果と主張しなかったこともあり、また小谷大尉が戦死したこともあって、戦闘機と艦攻、双方の命中弾による「協同撃墜」という、いかにも日本的な判定をくだしたのだった。

空戦後、授与された表彰状には、

〈小谷小隊及ヒ生田小隊ノ適切勇敢ナル敵戦闘機撃墜ハ帝國海軍航空史上ニ一新紀元ヲ画セリ其ノ功ヲ表彰ス 昭和七年二月二十二日 旗艦出雲 第三艦隊司令長官野村吉三郎〉

と記されている。