戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」

英雄はなぜ自ら海軍を去ったのか
神立 尚紀 プロフィール

敵は米国人義勇飛行士が操縦するボーイング

日本側は、この敵機が蘇州飛行場を基地にしているとの情報をつかんだ。そこで、こんどは「加賀」の戦闘機3機、艦攻3機に、蘇州の偵察、爆撃を命じる。余談だが、廟行鎮(びょうこうちん)攻撃中の、陸軍久留米混成旅団の北川丞、江下武二、作江伊之助各一等兵が、突撃路を開こうと爆薬筒を抱えたまま鉄条網に躍り込んで自爆、のちに「肉弾三勇士」と讃えられた戦闘も、同日朝の出来事である。

 

午後3時45分、「加賀」の6機は公大飛行場を発進、蘇州へと向かった。小谷進大尉率いる一三式艦攻3機は高度1000メートル。三式艦戦の生田は二番機・黒岩利雄三空曹、三番機・武雄一夫一空(一等航空兵)を率い、艦攻隊の後上方、高度1500メートルの位置についた。断雲はあったが、視界は良好だった。

「4時20分、蘇州上空に到着した、まさにそのときでした。飛行場の北方、高度300メートル、距離1000メートルを急上昇するボーイングを発見。艦攻隊はただちに密集隊形をとり、後方旋回機銃を敵機に向けました。ボーイングはものすごいスピードで艦攻隊に迫り、後下方から撃ち上げながら前上方に抜けると、ふたたび反転、こんどは急降下しながら小谷機を攻撃しました。

私は敵発見と同時に列機を展開させ、500メートル下方の艦攻隊を救うべく降下していきました。そのときの戦闘方法は、昭和4年に亀井大尉が英国で学んできた空戦の型そのままです。

私の『かかれ』の合図とともに、まず三番機の武雄が敵機の後上方より機銃攻撃、次いで二番機の黒岩が後下方より撃ち上げ、一番機の私がふたたび後上方より攻撃して仕留める、というものです。これが当時、3対1の対戦闘機戦闘の基本の型とされていました」

ショートが操縦したボーイング218の量産型、ボーイングP-12E。三式艦戦の最大速度241キロ/時に対し、最大速度304キロ/時と、すぐれた性能を持っていた

武雄機の攻撃は、降下スピードがつきすぎて敵機に命中弾を与えることができず、黒岩機も、ボーイングが艦攻隊への二度めの攻撃を終え、ふたたび上昇するところを捕捉、後下方約100メートルの位置から撃ったが有効弾は与えられなかった。だが、2機の攻撃がボーイングの行動を制約する形となり、後上方よりスピードを殺しながら追尾する生田機は、うまく敵機の後上方に回り込むことができた。

「私がいちばん、時間的に余裕がありますし、もっともよい姿勢でもって敵機の後ろにピッタリくっついて、距離150メートルまで肉薄して2秒間、約50発ほどの機銃弾を発射しました。すると、敵機の尾翼の方からプツプツと、ミシンを縫うように弾丸が命中し、パイロットが突然、バンザイをするように両手を挙げてのけぞるのが見えた。そしてバアッと火を噴いて、そのまま墜ちていったのです。敵機が火を噴いたときには、距離50メートルまで接近していました。型どおりやったとは言え、やはり無我夢中でありました……」

敵機発見から撃墜まで、わずか2分間の出来事だった。

部下の2機をしたがえて、公大飛行場に着陸、敵機撃墜の戦果を報告すると、基地には歓声が起こった。ようやく、勝ったんだという喜びが湧いてきた。たまたま居合わせた報道班員が、生田の愛機の前で、殊勲の戦闘機搭乗員3名の写真を撮った。

ところがその直後、ひと足遅れで艦攻隊が着陸。そこではじめて、艦攻の指揮官・小谷大尉が機上戦死していたことが判明、基地は深い悲しみに包まれる。

小谷大尉は、3人乗り真ん中の偵察員席にいて、後席(電信員兼射手)の佐々木一空が撃ち尽くした機銃の弾倉を取り換えようとしたところ、ボーイングの二度めの銃撃で体に4発の銃弾を受けたのだった。佐々木一空も、左脚脛骨を機銃弾で粉砕される重傷を負っていた。

「ショックでした。小谷がやられた、なんてことは艦攻が着陸するまで知りませんでした。クラスメートですからね、彼の戦死を知って喜びも吹っ飛んでしまいました」