戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」

英雄はなぜ自ら海軍を去ったのか
神立 尚紀 プロフィール

第一次上海事変が勃発し、中国本土へ進出

生田は、明治38(1905)年2月3日、福井県の農家に、6人きょうだいの長男として生まれた。名前の「乃木次」は、当時、日露戦争の旅順攻略で令名をうたわれた乃木希典(のぎ まれすけ)陸軍大将に続け、との願いをこめて父がつけた。

 

家は貧しかったが向学心は旺盛で、官費で学べる海軍兵学校(五十二期)に進んだ。のちに戦闘機の指揮官として名を馳せる源田實、柴田武雄、そして昭和天皇の弟宮である高松宮宣仁親王とはクラスメートにあたる。

海兵を卒業後、昭和3(1928)12月、飛行学生として霞ケ浦海軍航空隊に転じ、翌昭和4(1929)年11月、同教程を修了した。

「当時は、飛行機はあくまで補助兵力の扱いでした。海軍士官の花形配置といえば砲術、水雷、続いて航海で、飛行学生を志すものは少なかったんです。しかし私は、飛行機はいつか戦争に重要な位置を占めるようになると思い、航空を熱望していました」

源田實とは、飛行学生でも一緒だった。ただ、生田と源田は反りが合わなかったようで、そのことは、

「源田は、操縦はうまかったがスタンドプレイが好きでしたね……」

と言った、生田の言葉のはしばしからも窺えた。

飛行学生を卒業後、横須賀海軍航空隊(横空)に転勤。ここでは、イギリスに留学し、日本海軍の戦闘機搭乗員としてはじめて空中戦の「型」を学び、帰国したばかりの亀井凱夫大尉(昭和19年8月、グアム島で戦死)の指導のもと、空中戦闘の方法をみっちり学んだ。

生田は連日の猛訓練でめきめきと腕を上げ、昭和5(1930)年、大村海軍航空隊に転勤後、空中戦技訓練の吹流し射撃(飛行機がロープで曳航する吹流しを的に射撃をする)では、ほぼ全弾命中、海軍最高点の成績をおさめた。しかし、ちょうどこの頃、空中機動により身体にかかる大きなG(重力)の影響で腰を痛め、苦しむようにもなる。

そして昭和6(1931)年、生田は空母「加賀」乗組を命じられた。この年9月、満州事変が勃発。中国民衆による排日運動がまたたく間に中国全土に広がってゆく。

昭和7(1932)年1月18日、日本、イギリス、アメリカ、イタリアなどの国際共同租界とフランス租界が置かれていた上海で、布教活動中の日蓮宗僧侶ら日本人5名が中国群衆に包囲暴行を受け、うち1名が死亡、2名が重傷を負う事件が発生。これが契機となって、1月28日、日中両軍の全面軍事衝突に発展した。

――上海事変である。のち、昭和12年、第二次上海事変が勃発すると、この昭和7年の軍事衝突は「第一次上海事変」と呼ばれることになる。

日本海軍はただちに空母「加賀」、「鳳翔」からなる第一航空戦隊を上海沖に派遣、搭載する飛行機隊をもって陸上戦闘の支援にあたることととした。

上海沖に派遣された空母「加賀」(上)と「鳳翔」(下)。この2隻で第一航空戦隊を編成していた

2月5日、上海沖に到着した「鳳翔」を発艦した平林長元大尉率いる一三式艦上攻撃機(艦攻・3人乗り)2機と、所茂八郎(ところ・もはちろう)大尉率いる三式艦上戦闘機(艦戦・1人乗り)3機が、中国空軍のヴォートⅤ-65Cコルセア戦闘機など4機と交戦、はじめての空戦で、1機に機銃弾を浴びせたものの撃墜にいたらず、同じ日に出撃した「加賀」の一三式艦攻1機が地上砲火で撃墜された。

上海での陸戦協力に出撃した三式艦上戦闘機(上)と、一三式艦上攻撃機(下)

2月7日、「加賀」「鳳翔」の飛行機隊は、整備のできた上海近郊の公大(クンダ)飛行場に進出、以後、ここを拠点に出撃することになる。

2月19日、蘇州方面の索敵に発進した「鳳翔」の戦闘機3機が、ボーイング218戦闘機1機と遭遇。しかしボーイングの性能は、三式艦戦をはるかに上回っていると思われ、日本側の3機は翻弄されるばかりで、ついに敵機を仕留めることはできなかった。

このボーイングが、22日に生田と戦火を交える、ロバート・ショートが操縦する戦闘機だった。性能差をまざまざと見せつけられた日本側の空気は暗澹たるものだった、と生田は回想する。