1932年2月22日、日本初の敵機撃墜を記録して、公大飛行場に着陸直後の生田小隊。左より、生田大尉、黒岩三空曹、武雄一空。バックは愛機・三式艦上戦闘機

戦争秘話…敵機撃墜第1号となった戦闘機乗り「波瀾万丈過ぎる人生」

英雄はなぜ自ら海軍を去ったのか

いまから88年前の昭和7(1932)年1月、上海で、居留民保護の名目で進駐していた日本軍と中華民国軍との間に軍事衝突が起きた。「第一次上海事変」と呼ばれる。

日本海軍はただちに空母2隻を派遣、2月22日、空母「加賀」戦闘機隊の生田乃木次(のぎじ)大尉が、蘇州上空でアメリカ人義勇飛行士ロバート・ショートが操縦する戦闘機と空戦を交え、撃墜した。これが陸海軍を通じ、日本で初となる敵機撃墜である。生田大尉は一躍「時の人」となり、国民的ヒーローに祭り上げられたが、その年の暮れ、突然海軍を辞めてしまう。

彼はなぜ海軍を去らねばならなかったのか――。本人の肉声からは、現代に通じるメディアの問題と、戦前ならではの社会的事情が浮かび上がってきた。

 

92歳、保育園を経営する元戦闘機乗り

「歴史には必ず段階がある。零戦も、いきなり誕生したわけじゃなくて、そこへ至るには多くの先輩の努力や苦労があった。零戦を知りたければ、それ以前を知る人とも会っておきなさい」
 
と、零戦搭乗員会の代表世話人だった志賀淑雄(元少佐)は言った。筆者が、戦争体験者の取材を始めてほどない平成8(1996)年3月のことである。

「生田乃木次さん。あなた知ってる? 昭和7(1932)年の第一次上海事変で、日本陸海軍を通じて初めて、敵戦闘機を撃墜した。ところが、そのあとすぐに海軍を辞め――士官は下士官兵とちがって満期がないから、簡単に辞めることはできないんだが――、戦後、我々が戦闘機の大先輩としてお話を、とお願いしても、けっして出てこられない。しかし、あなたのような若い人が訪ねて行けば、あるいは話してくださるかもしれない」

生田乃木次大尉の名は、筆者も知っている。日本初の敵機撃墜。しかし、そのことが語られることは少なく、昭和52(1977)年、読売新聞社の協力で、撃墜した相手パイロットの弟と会ったことが取り上げられたぐらいで、本人の肉声を伝えるものは見たことがない。そもそも空戦から60数年、当の生田大尉が存命であるとは思ってもみなかったのだ。

志賀は、その場で生田に電話をかけた。生田は現在、千葉県で保育園を3ヵ所、経営しているという。聞けばかなり多忙な様子で、卒園式や入園式が終わってひと息つく1ヵ月後に、また電話するようにとの返事だった。

そして4月。生田は、「いまさら戦闘機の話と言っても……」と気乗りしない様子だったが、ともかく会ってくれることになり、千葉県船橋市の自宅を訪ねた。

生田は92歳。電話で感じた気難しさはなく、溶けるような笑顔の魅力的な人だった。

自ら園長を務める保育園で、子供たちに囲まれる生田乃木次氏(1996年、撮影/神立尚紀)

通された部屋の仏壇には婦人の遺影が飾られている。

「家内です。去年の3月に亡くしました」

長押の上には、蘇州上空の空戦でアメリカ製敵戦闘機・ボーイング218を撃墜し帰還したとき、愛機・三式艦上戦闘機をバックに二番機、三番機の搭乗員とともに撮られた写真が、額に入れてかけられていた。3人とも満面の笑顔。この写真に写っている戦闘機パイロットが、目の前の人だと思うと不思議な気がした。

「ボーイングを発見したときは、何も動揺はありません。しかし、空戦が終わったあとにね、非常な恐怖感が湧いてきました。敵の弾丸が当たっていて、エンジンが途中で停止するんじゃなかろうか、他にも我々を狙ってる敵機がいるんじゃなかろうかと。空戦中は、周囲の状況を見る余裕は全くなかったですから……」