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「日本の生きる道」と有機農業の踏み誤られた歴史の第一歩

満洲報国農場と農本主義者たちの戦後
小塩 海平 プロフィール

日本の生きる道

戦後の日本農業はどうあるべきか――、農本主義者たちは有畜農業に日本の生きる道を見いだそうとした。

その旗手となったのはフェリス女学院の第2代校長であったユージーン・ブース(1850-1931)の息子、フランク・ステレ・ブース(1880-1957)であった。

彼は戦時中、敵国人として抑留の憂き目に遭い、収容所を転々とさせられたが、それでも日本の将来を憂い、『日本の生きる道』を出版し、有畜農業を主唱した。彼はアルバート・ハワードやJ.I.ロデイル、ロイス・ブロムフィールドらの書物を日本に紹介し、いくつかの邦訳が、黒澤酉蔵を通して酪農学園出版部から刊行された。

フランク・ステレ・ブース『日本の生きる道』

ロデイルの『黄金の土(Pay Dirt)』(1950年)にはブースの長文に及ぶ熱烈な序文が付されており、ハワードの『農業聖典(An Agricultural Testament)』(1959年)には石黒忠篤による才気溢れる跋(あとがき)が添えられていた。

東畑四郎によると、石黒はハワードやブロムフィールドの著作を原典で読んでいたようである。後藤文夫もスガモプリズンでブロムフィールドの『楽しい谷(Pleasant Valley)』(1958年)を原書で読んでいたことが知られている。

石黒は『農業聖典』の跋で、「私に初めてハワードの本を見せてくれたのは、老友フランク・ステレ・ブース君であった。彼はオルガニック・アグリカルチュアの熱心家で……」と述べている。彼らの目指した「有畜農業」が「オーガニック・アグリカルチャー」と表現できるものであったことが理解できる。

ブースは有畜農業とともに、治山治水、水力発電、栄養価の高い食品摂取の必要性を力説した。

例えば、1952年1月号の『婦人之友』には「こういう意味で「農は國のもと」といえないでしょうか」と題して行われた座談会の様子が収録されている。

『婦人之友』1952年1月号

参加者は、石黒忠篤、大槻正男、那須皓、フランク・ステレ・ブース、古野伊之助、羽仁吉一、羽仁もと子で、あらゆる空き地を農場化するという戦時中の報国農場的な発想とともに、家畜の飼養、ミルクの給食化などが熱心に議論された。

 

欧米と日本の「アグラリアン」のちがい

ところで、ハワードやロデイル、ブロムフィールドらの流れを汲むウェンデル・ベリー著『ウェンデル・ベリーの環境思想 農的生活のすすめ』(2008)を訳した加藤貞通は、日本の場合なら「農本主義者」と訳す「アグラリアン」という言葉を「農的生活者」と訳して区別を設けている。

石黒に代表される日本のアグラリアンと、ハワードやロデイル、ブロムフィールド、あるいはその後継者と見なせるシューマッハーやウェンデル・ベリーなどの欧米のアグラリアンとの間には、確かに本質的な隔たりがある。

例えば、1952年に設立された国際農友会は、会長に那須皓、理事に小平権一、橋本傳左衞門、杉野忠夫、顧問に石黒忠篤、佐藤寛次、羽仁もと子、相談役に黒澤酉蔵などが名前を連ね、まるで満洲移民の焼き直しのように青年農業者の国際交流や移住が推奨された。しかし、欧米のアグラリアンたちは、土つくりに忠実に励むためには孫の世代まで気持ちよく住める家を造って定住することが大切であると考えた。

また、日本の農本主義者たちは、食糧自給率を高めることが国家の安全保障にとって必須であると考えたが、ウェンデル・ベリーによれば「自立などというものは存在しない。実際上、責任ある依存と無責任な依存との違いがあるだけである」という。

欧米のアグラリアンたちの主張を私なりに要約すると、近代科学と産業革命によってバラバラに還元されてしまった無機的な世界において、父なる神、母なる自然、友なる人々との有機的な相互依存関係を、土を介して取り戻していくのが、有機農業ということになろう。