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「日本の生きる道」と有機農業の踏み誤られた歴史の第一歩

満洲報国農場と農本主義者たちの戦後
小塩 海平 プロフィール

しかし、いくら農林大臣が檄を飛ばしても、働き手の不足と肥料の払底は解消できるはずがない。

満洲の沃野は肥料要らずといわれたが、実際にはアルカリ土壌や湿地が多く、土地改良が必要なところも多かった。満洲農業の経験に乏しかった開拓団は土地を持て余すばかりで、報国農場隊の支援があっても、収穫物を日本の本土に出荷できるような成果を上げることは難しかった。

酪農学園大学の創始者として知られる黒澤酉蔵は、『健土國策と有畜機械農業』(日本有畜機械農業協會、1943年)で当時の満洲農業を痛烈に批判している。

「満洲の現在の土地を見ますと、もっとひどいのになると、牛や馬の糞を乾かして焚いて居るのでありますから、實に徹底した地力の搾取なのであります。家畜と人間と一緒になって土地から掠奪をして居るのが満洲の農業であります」。

 

黒澤酉蔵が提唱した「有畜機械農業」

黒澤は1941年に北海道の馬耕指導者100名を満洲に派遣して指導に当たらせ、満洲建国10周年記念式典では馬耕協議会を催すなどして、有畜機械農業の推進を提唱した。

この場合の機械というのは、トラクターなどの大型機械ではなく、役畜に曳かせる犂などの道具を指している。黒澤はほとんどの入植農家が4000円から8000円の借金をしている現状を憂い、まず家畜の糞尿を利用した厩肥と深耕によって土つくりを行うことが肝要であると主張している。

また、黒澤は1942年、有畜機械農業の訓練施設として、野幌機農学校を設立した。この学校は修業年限が3年で、通学を許さず、すべて学校に寄宿させて教師と起居を共にさせ、授業料、食費も徴収せず、一切を自給自足する施設であった。

黒澤の著書『皇道農業』(目黒書店、1944年)には「機農の意義に就きて」という付録が記されており、「農業は天、地、人三才の機動和合によって成立するもので、天地の機の発動せざる所には生命宿らず、生命宿らざる所に健土健民の実は挙がらない」と述べている。

つまり天地の機微を悟って営む「機農」こそ、輝かしい皇土を耕す皇道農民の使命にほかならないというのが、黒澤の信念であった。