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『嫌われる勇気』の著者が送る「苦しい」人生を生き抜くための哲学

生きづらさを感じているすべての人へ

苦しみを受け入れられるか

老い、病、死。人生は苦しみに満ちている。この世界に起こることにはすべて意味があり、人間の目にはどれほど理不尽に見えようと、悲惨な出来事にもすべて意味があるのだという摂理を信じられる人であれば、どのようなことがあっても受け入れることができ、その後の人生を積極的、前向きに生きていく契機にすることができるだろう。

しかし、実際に自分や家族、親しい友人に災難が降りかかれば、やはりとうてい受け入れることはできないのではないだろうか。

 

成功と挫折

どんなに頑張っても、自分が目下その中にある困難な状況から抜け出せないことがある。そもそも人生には頑張ることさえできないこともあるのだから。

しかし、これも考えようである。挫折も人間の成長には必要だからだ。人は、首尾よくやり遂げただけでは学べない。そのような時は思いのほか、学べない。たまたま失敗しなかっただけかもしれないのだから。

しかし、挫折した時はなぜこんなことになったか考えないわけにはいかない。何も考えない人はまた同じ失敗を繰り返す。挫折の経験からこそ学ぶことは多いのである。

挫折が致命的なものに思えるのは、成功を目標にしている時である。三木清によれば、成功とは「過程」に関わる概念である(『人生論ノート』)。成功するためには、何かを達成しなければならないということだ。

成功することそれ自体が駄目であるわけではないだろう。しかし、人は必ず成功するとは限らない。むしろ、成功を目指していても挫折することはある。その時にどうするかを考えておかなければならない。

「成功=幸福」ではない

あるいは、成功だけを目標にして生きることがそもそも問題だともいえるだろう。成功だけを目標にして生きる人には、人生の行く手を塞ぐ困難は単なる成功の妨げでしかない。このような人にとっては、たしかに挫折は大きな躓きになり、致命的なものに思える。

この意味においては、幸運でさえも成功を脅かす。幸運に恵まれるかどうかは自分で決められず、幸運に恵まれたとしても、いつまでも続かないのではないかと思うと安閑としてはいられない。

三木は、幸福は成功とは違って「存在」に関わるといっている。幸福であるために何かを達成する必要などはなく、ただ単に今、人は幸福で「ある」ということだ。幸福とは、「なる」ようなものではないのである。

幸福は何かによって得られるものでも、反対に失われるものでもない。だから挫折したとしても、幸福は、そのことからいささかの影響も受けることはない。