今抱えている劣等感の正体は、
日常に対する経験値の低さ

演技をしている瞬間に、「今、すごく自由だな」と感じる一方で、新たな劣等感も生まれているという。

「目一杯怒っていいし、目一杯泣いていいし。そういう意味で、役の方が、自由になれる瞬間は、確実にある気がします。でもそれも全部ってわけじゃない。これを言ってしまうと、ものすごく贅沢な悩みに聞こえるかもしれないんですが…………芝居に対する情熱が空回りしていた時期を抜けて、実は今、僕はまた別のトンネルに入っているんです。

それは、いわゆる“普通の暮らし”とか“普通のストレス”を自分が知らないかもしれないことに対する劣等感というか……。時々、インタビューなんかで、『俳優じゃなかったら何をやっていたと思いますか?』とか質問されるんですが、同じ時間に、同じ場所に通うようなサラリーマンも、建設現場なんかで働くようなことにしても、自分ができるとかできないとか、想像がつかないんですよ。

ものづくりの現場には、いろんな幸せが転がっているけれど、幸せの形を、この職業でしか知らないということはもしかしたら寂しいことかもしれない。僕らって、結局、市井の人を演じるわけじゃないですか。なのに僕は、13歳から特殊な世界にいて、“日常”というものに対する経験値が低い。基本的に世間知らずなんです。それが、今の僕の最大のコンプレックスです」

撮影/山本倫子

そう太賀さんが話すのを聞いて、以前、田中裕子さんが、「立派な役を演じることよりも、私にとっては日常の中にある、人間らしい“普通の暮らし”が一番大事」と話していたことを思い出した。樹木希林さんも、「芝居をしていて一番難しいのは、普通のことを普通にすること。例えば、料理をしながら台詞を言うとか。普段料理をしていなかったら絶対にできない」と語っていたことがある。瞬時に思い出したその二人の言葉を大賀さんに伝えると、「そう、それなんです! まだ俺は圧倒的に、普段のことを大事にできていない。俳優として演じることばかりに気を取られて、人間らしい営みを、もしかしたら疎かにしてきたかもしれないんです」と言う。

中川監督によれば、行助は「人に対して与え、尽くそうと努力する人間」なのだそうだ。そうして、行助を演じた太賀さんもまた、役に対して自分を与え、捧げ、尽くそうとする人間なのだな、と思った。

©2019「静かな雨」製作委員会 / 宮下奈都・文藝春秋
『静かな雨』
行助(仲野太賀)が出会った“たいやき屋”を営むこよみ(衛藤美彩)。彼女は事故に遭い、その後遺症で、過去の記憶は残ったが、朝目覚めるたびに昨日の記憶を失っていた。今日という1日を、彼女とともに生きようと行助は決意し、絶望と背中合わせの、希望に彩られたふたりの日々が始まった。2019年釜山映画祭に正式出品され、東京フィルメックス コンペティション部門で、もっとも観客から支持を集めた“観客賞”を受賞。監督は、日常が生み出す歓び、絶望と希望を描き続けてきた1990年生まれの精鋭・中川龍太郎。宮下奈都のデビュー作で、2004年文学界新人賞の佳作に選ばれた小説「静かな雨」(文春文庫)の映画化。

制作:WIT STUDIO Tokyo New Cinema 企画協力:文藝春秋 配給:株式会社ギグー
©︎2019「静かな雨」製作委員会/宮下奈都・文藝春秋2019

Photo/Noriko Yamamoto Stylist/Dai Ishii Hair Make-Up/Masaki Takahashi 
Interview&Text/Yoko Kikuchi