「近代理性の象徴」であった軍部は、なぜ暴走したのか?

いかにして軍部は政治を呑み込んだのか
小林 道彦 プロフィール

5・15事件-犬養毅と政党政治の死

だが、悲劇はこれだけでは終わらなかった。

1932年(昭和7)5月15日、犬養は首相官邸で海軍青年将校の放った凶弾に斃れた(5・15事件)

彼は銃口の前に怯ひるむどころか、「話せばわかる」と青年将校の前に立った。そして、銃弾を身に受けた後も「いまの若い者をもう一度呼んで来い。話してやる」と繰り返した(阿部眞之助『近代政治家評伝』245〜247頁)。

 

「人の将に死なんとするときは、其の言うや善し」(曾子、「死に臨んだ人間のことばは真実なものだ」、諸橋轍次『中国古典名言辞典』)という。犬養の最期の言葉は彼が本物の言論人であり、政党政治家であったという事実を示している。現代の感覚で言えば、広汎な大衆的抗議運動が起こってもおかしくないだろう。だが、事態はまるで逆であった

当時の国民世論は犬養の同志や郷里岡山の人々を除いて、彼と〝政党内閣の死〞にほとんど一片の弔意も示さなかった。世論は青年将校の〝純粋な動機〞に反応し、軍人による政治的暴力行使を事実上容認した

犬養毅(国立国会図書館所蔵)

彼らは当然軍法会議に処せられたが、軍当局には市井の人々からの膨大な助命嘆願書が積み重ねられた。それかあらぬか、被告に科せられた量刑は比較的軽微なものであった。

こうして世論のお墨付きを得た軍部、とりわけ陸軍革新運動は以後ますます直接行動主義への志向を強めていく

この頃、大衆文化・芸能の世界では幕末維新の「志士」の活躍や尊王攘夷運動が好んで取り上げられていた。大衆は維新の志士の幻を青年将校運動の中に見出し、青年将校の中にも志士的雰囲気は瀰漫していた。一方、「マルクス・ボーイ」は自らの転向に対する虚無的な気分を維新の激動に翻弄された人々の運命と重ね合わせた。

三月事件をきっかけに、無産政党内部には軍部の政治介入を歓迎する動きが顕著となっていった(渡部亮『大正デモクラシー』の政党化構想のゆくえ)。そういった社会的風潮の行き着いた先が1936年の2・26事件であった。

もちろん、その後も「狂瀾を既倒に廻らす」チャンスがなかったわけではない。だが、5・15事件によって、日本と日本社会は「軍人による政治的暴力行使の容認」という決定的な閾(しきい)を越えてしまったように思われる。

「昭和維新」の時代は、もうすぐそこにまで迫っていたのである。