「近代理性の象徴」であった軍部は、なぜ暴走したのか?

いかにして軍部は政治を呑み込んだのか
小林 道彦 プロフィール

かくなる上は最後の手段を講ずるしかない。犬養は外務省の頭越しに、上海での日中両軍の相互撤退と中立地帯の設定を中国側に提案し、もし、日本陸軍が撤兵に従わない場合には「或る手段」を講じるつもりだとほのめかしていた。

犬養もまた、天皇大権の直接的な行使を考え始めていたのである。だがそれは外部に漏れ、犬養暗殺の一因となったと伝えられる(『牧野伸顕日記』1935年6月7日)。

3月1日、日本軍の総攻撃が開始された。第11師団は撤退要求ラインを超えて進出し、ここに国軍の威信は挽回されたこととなった。

3月1日、総攻撃に向かう日本軍(『満洲・上海事変写真帖』国立国会図書館所蔵)

参謀本部はなおも攻撃続行を主張したが、白川はそれを受け付けなかった。3月3日、白川は停戦交渉の開始を一方的に宣言した

満州国「独立」と慎重派・強硬派の対立

3月1日、溥儀を執政とする満州国がその「独立」を宣言した。朝鮮3・1独立運動の記念日に満州国の独立を宣言するとは、関東軍は朝鮮統治に対する配慮に欠けている。事前に情報に接した宇垣は、そう憤慨し慨嘆している(『宇垣一成日記』2、1932年2月27日)。

国内では満州国の承認を求める声が強まっていたが、犬養はそれを何とか引き延ばし、あわよくば本来の独立政権路線に引き戻そうと画策していた

閣議でもこの問題は議論されたが、犬養らの慎重論が勝ちを占めた。3月12日、犬養は「満州国承認は容易に行わざる件」を上奏し、天皇もそれを嘉納した

 

とはいえ、第一次上海事変と満州国建国宣言の後では、果たしてどれほど南京国民政府との間に妥協の余地は残されていただろうか。4月29日、上海での天長節奉祝式典に一朝鮮人によって爆弾が投ぜられ、全権公使の重光葵は片足を失う重傷を負い、白川は1ヵ月後にこの世を去った。宇垣の危惧は的中した。

白川は良識的な軍人であり、日本陸軍の軍紀・軍律の弛緩・崩壊を深く憂えていた。彼は上海での戦火の拡大阻止に尽力し、軍部内の強硬論を抑えてそれを実現した。天皇は白川の死を深く悼んで、「をとめらの雛まつる日に戦をばとゞめしいさを思ひてにけり」との御製を内密に遺族に下賜している。

結局、この挑発的テロルにもかかわらず、日本側の方針は揺るがなかった。上海での停戦は維持されたのである。