ローマは寛容政策で強くなった
寛容が国家を強くしたことは、「歴史的事例を見れば、疑問の余地がまったくないほど明らかだ」と、チュアは言う。
その代表例が古代ローマだ。ローマは、征服した異民族を属国としたが、支配するのではなく、同化政策をとった。
このことは、古くからさまざまな歴史家によって指摘されて来た。
エドワード・ギボンは、『ローマ帝国衰亡史』(ちくま学芸文庫)で、次のように言っている。
「ローマの偉大さは、征服の迅速さでも、広さでもない。属州の統治に成功したことだ。統治は概して属州の住民のために善政であり、彼らの生活水準の向上に寄与した。だから彼らは、属州化を喜んで受け入れたのである。なかでも、カエサルによるガリアの統治は、典型的な成功例であった」
この点においても、ローマ的寛容政策の正反対にあったのが、ナチスのユダヤ人抹殺政策だ。
ナチスの軍隊がソ連領内に侵攻した当初、ドイツの兵士は解放者として歓迎されることもあった。それは、ソ連から抑圧を受けていたウクライナやバルト三国において、とくに顕著だった。
だが、ナチスはウクライナのユダヤ人を絶滅させるほどに殺害した。その結果、ソ連の全人口がナチスに対する憎悪で団結したのだ。
チュアは、仮にナチス・ドイツがウクライナに対して寛容政策をとったなら、第2次世界大戦の帰結は大きく変わっていただろうという。そのとおりだ。