# 特攻 # 戦争

戦場秘話…命がけでフィリピンを脱出した搭乗員、下された「非情命令」

「残るも地獄、去るも地獄」の戦場
神立 尚紀 プロフィール

「私は『決戦』という言葉が大嫌いでした」

いっぽう、ピナツボ山麓の複郭陣地に立てこもったクラーク防衛海軍部隊は、約15400名といわれる。彼らは、慣れない陸上戦闘で、戦車を前面に立てた米軍の圧倒的な火力を前に絶望的な戦いを続け、そのほとんどが戦死、生還者は約450名にすぎない。

複郭陣地は、左翼(北)から、十三戦区、十四戦区、十五戦区が順に制圧され(当初構築された十一戦区、十二戦区は指揮官が転出し、いずれも解隊されている)、総指揮官・杉本丑衛少将は、昭和20年4月中旬、クラーク防衛部隊の編成を解くとの命令を発した。残る部隊は、それぞれの指揮官のもと、山中に隠れ、自活の道を講じ、なおもゲリラ戦を続けよ、というのである。

 

だが、米軍の火力から逃れても、山中での自活は、飢餓と病気との苦しい戦いの連続だった。杉本少将は6月12日、

「俺の肉を食って生き延びよ」

と、部下に言い残して自決した。

角田和男のバンバンからの出発を見送りにきた三四一空司令・舟木忠夫中佐は、極限の状況下、何かのことで部下の恨みを買ったらしく、7月10日、マンゴーの実をとろうと木に登ったところを従兵に火をつけられ、燃える草原の上に落ちて非業の最期を遂げた。

舟木忠夫中佐。角田和男のかつての上官で生粋の戦闘機乗りだったが、ルソン島で陸戦隊の指揮官となり非業の最期をとげた

角田が「残ってあげればよかった」と後悔するのは、自分がついていれば舟木にこんな死に方はさせなかった、という自責の思いも含まれていたのだ。角田は戦後、平成25年に亡くなる直前まで、舟木の命日に近い7月15日には欠かさず、不自由になった体を押して靖国神社に詣で、戦友たちの霊を弔い続けた。

フィリピンから脱出した搭乗員たちは、運よく内地へ転勤できた者もふくめ、半数近くが、終戦までのわずか半年の間に命を落とした。彼らにとって、フィリピンからの脱出行は、続く沖縄戦、本土防空戦の序章にすぎなかったのだ。止めどきを見失った戦争は、末期になってさらに多くの犠牲を生み、軍人ばかりでなく数多の民間人をも巻き添えにした。

思えば、昭和19(1944)年6月、米軍のサイパン、テニアン上陸を迎え撃ち惨敗したマリアナ沖海戦、10月、レイテ島に来襲した米軍を撃滅しようとして返り討ちに遭った比島沖海戦と、海軍上層部はことあるごとに「決戦」を呼号してきた。

「私は『決戦』という言葉が大嫌いでした。決戦とは、その戦いで全てを決するということなのに、決戦に負けたらまた決戦だと。決戦の大安売りです。そのために、どれほど多くの部下を失ってきたことか。長期戦になればそもそも勝てない戦争であったことはわかっていたはず。現場の将兵は決死の思いで戦っているのだから、上層部も命がけで戦争を終わらせて欲しかった……」

とは、重慶上空の零戦のデビュー戦、そして真珠湾攻撃にはじまって、大戦中のほぼ全期間を零戦隊を指揮して戦い、部下からは一機の特攻機も出さなかった進藤三郎少佐(1911-2000)が、筆者に残した言葉である。

進藤三郎少佐。大戦中のほぼ全期間を零戦隊を率いて戦ったが、自らの隊からは特攻を出さなかった(右写真撮影/神立尚紀)

75年前、フィリピンのジャングルを行軍した若者たちも、いまやそのほとんどが鬼籍に入った。壮絶な体験も、苦労した思い出も、重要な教訓も、当事者の死とともに大抵は無に帰してしまう。彼らの記憶の断片を拾い集め、ときには戦時中に思いを馳せてみることも、「平和」を見つめ直す上で大切なことではないだろうか。