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戦場秘話…命がけでフィリピンを脱出した搭乗員、下された「非情命令」

「残るも地獄、去るも地獄」の戦場
神立 尚紀 プロフィール

否応なしに全員が特攻隊員に

しかし、ようやく台湾へ脱出した角田や長田、小貫たち搭乗員を待っていたのは、またしても特攻だった。

角田たちが、輸送機で台湾の高雄基地に到着したのは、1月26日早朝のこと。これでしばらくは休める、と誰もが思ったが、彼らには、翌日から交代で特攻待機に入れ、との命令が言い渡される。台湾では、もはや特攻隊員の志願募集は行なわれず、フィリピンから帰された戦闘機乗りは、いままで特攻隊員でなかった者もふくめほぼ全員が、否応なしに特攻隊になった。

角田は、フィリピンから帰ってきた名も知らぬ予備士官の中尉が一人、飛行長・中島正中佐に、志願した覚えのない特攻編成から抜けさせてくれるよう直訴し、怒った中島中佐に顔が紫色に腫れ上がるほど殴られても屈せず、のちに内地に転勤していったのを記憶している。

 

昭和20年2月5日付で、フィリピンから台湾へ引き上げた特攻隊員を中心に、新たな特攻専門部隊として第二〇五海軍航空隊(二〇五空)が編成された。

二〇五空の特攻隊は「大義隊」と命名され、103名の搭乗員がそこに組み入れられた。これまで一度も特攻を志願したことのない長田利平も、その一人である。

「戦闘機乗りとして一人前になりたい一心で猛訓練に耐えた私にとって、敵機と空戦を交えることもないまま、爆弾を抱いて敵艦に突っ込むというのはいかにも無念なことでした。空戦で、自分の技倆が劣っていて結果的に撃墜されるなら仕方がない。でも、特攻は、任務を果たすことがすなわち『死』です。待っているのが同じ『死』であるにしても、それとこれとは全く別だと思い、私は志願しなかった。それなのに、二〇五空が編成されると、自動的に特攻隊員とされてしまったんです」

長田と同様、フィリピンで特攻を志願しなかった19歳の零戦搭乗員・西川勇二飛曹(のち上飛曹。戦後、岩倉と改姓。1925-2019)は、昭和20年1月9日、ツゲガラオ基地を発進、米軍の上陸部隊がひしめくリンガエン湾上空でグラマンF6F戦闘機20機と空戦になり、撃墜され落下傘降下した。そこにはたまたま敗走中の日本陸軍部隊がいて、岩倉は陸軍とともに2ヵ月半をかけ、必死の思いでツゲガラオに舞い戻る。だが、搭乗員の台湾への輸送作戦はすでに終わっていて、自分の部隊はもう誰も残っていなかった。

途方に暮れていると、3月28日、内地に飛ぶ飛行機便があるという。それは、米軍に追われ、日本に亡命するフィリピン共和国のホセ・ラウレル大統領を救出に来る日本海軍の輸送部隊、第一〇〇一海軍航空隊の一式陸攻だった。おそらくこれがフィリピンを脱出できる最後の機会である。陸攻が着陸すると、便乗を希望する者が周囲を取り囲んだ。なかには、トランクいっぱいの札束を陸攻の搭乗員に見せて懇願する士官もいたという。

だが、大統領一家4名を乗せると飛行機にはいくらも空席がない。そこで、海軍の基地指揮官が西川に、

「台湾に二〇五空という、優秀者揃いの精鋭部隊がある。お前は搭乗員だから、この飛行機に乗ってその隊に行け」

と命じた。陸攻はあわただしく便乗者を乗せると、3月29日未明、ツゲガラオを離陸した。2時間半後に台湾・高雄基地に着陸、そこで西川は降ろされる。

「やれやれ、助かった。これからは精鋭部隊の一員だ」

と思ったが、これから行く「優秀者揃い」の二〇五空が特攻専門部隊だとは知る由もない。西川もここで、否応なしに特攻隊に編入されることになった。

西川(戦後・岩倉)勇二飛曹(のち上飛曹)。撃墜され山中をさまよい、数奇な運命を経てフィリピンを脱出した(右写真撮影/神立尚紀)

ラウレル大統領は日本の敗戦時、滞在先の奈良ホテルで、占領軍に戦犯容疑で逮捕されるが、のちに恩赦を受け、戦後もフィリピン上院議員を務めた。

米軍が沖縄に侵攻すると、二〇五空特攻「大義隊」は、4月1日を皮切りに、台湾の各基地や石垣島、宮古島を拠点に沖縄沖の敵機動部隊に向け、特攻出撃を繰り返すこととなる。

6月22日、沖縄が事実上陥落するまでの3ヵ月足らずの間に、小貫貞雄は5回、長田利平は4回、爆装機として出撃し、角田和男は直掩機として4回の出撃を重ねた。特攻隊は、早朝の索敵機による「敵発見」の報告を受けて出撃するが、数時間後の推定地点に敵艦隊がいるとは限らず、発見できずに帰投することの方が多かったのだ。大義隊の特攻戦死者は35名だった。