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戦場秘話…命がけでフィリピンを脱出した搭乗員、下された「非情命令」

「残るも地獄、去るも地獄」の戦場
神立 尚紀 プロフィール

ゲリラと戦いながら、600kmを徒歩で行軍

病室を脱走した長田が隊に戻ったのは、まさに搭乗員の脱出が決まったときだった。二二一空は残存したわずかな零戦に搭乗員を二人ずつ乗せ、乗り切れない者は陸路、ツゲガラオに向かうのだという。零戦は操縦席の後方に人が一人乗れるぐらいの空間があり、座席を前に倒して潜り込むことができる。

「病院を出てきてよかったと思いました。司令・八木勝利中佐が、お前は病人だから零戦に乗って行け、という。司令の恩情に感謝しながら、私は、同期生の愛知正繁飛長が操縦する零戦の胴体に乗り込みました。ところが、離陸するとエンジンの調子が悪く、基地に引き返して修理を待っている間に、見知らぬ大尉がいきなり現れて、『あの飛行機には俺が乗って行く。お前は歩け』と、取り上げられてしまったんです。それで泣く泣く、行軍組に加わることになりました」

長田利平飛行兵長(のち一飛曹)。病み上がりにもかかわらず、600キロを徒歩で行軍し、命からがらフィリピンを脱出した(右写真撮影/神立尚紀)

1月8日、ルソン島の各基地から、司令部のあるバンバン基地に集められた搭乗員たちには、一週間分の食糧として、靴下に詰めた米と缶詰が渡され、ツゲガラオ基地へ移動、そこから台湾行きの輸送機に乗ることが命じられた。

バンバンからツゲガラオまでは最短距離で約450キロ。米軍上陸部隊を避けての山中の行軍では、歩く距離は600キロ(ほぼ東京〜神戸間と同じ)にはなる。使えるトラックは5~6台しかない。乗れる者はこれに乗って、ピストン輸送をする計画だったが、悪路でトラックの故障が相次ぎ、結局、ほとんどの搭乗員は徒歩での移動を余儀なくされた。

脱出する搭乗員たちは隊列を組んでバンバンを出発したが、敵に制空権を奪われ、日中は危なくて行軍できないので、歩くのはもっぱら夜間である。だが、当時、フィリピンの治安は非常に悪く、不時着した日本の搭乗員が住民に惨殺されたり、日本軍将校を乗せた車が、親米派の武装ゲリラに襲撃されるなどの事件がしばしば起きていた。長田の回想――。

「途中の小さな町で、駐屯している陸軍の世話になって泊まろうとしているとき、突然、銃声が聞こえました。ゲリラの襲撃です。頭上を弾丸の飛び去るヒュッ、ヒュッ、という音がして、薄暮のかなたにゲリラの動く姿と、応戦する陸軍部隊の姿が見えた。陸軍の中隊長らしい将校が道路に仁王立ちして、左右に展開させた部下たちを指揮している。勇敢だなぁ、と思いましたね。

私は持っていた十四年式拳銃に弾丸を装填して、蛸壺(タコツボ・一人用の塹壕)で身構えましたが、素人の出る幕ではありません。陸軍はさすがに手慣れた様子で、10分ほどでゲリラを撃退しました。やれやれ、と拳銃の弾丸を抜いて蛸壺から出たら、なんだか周囲が騒がしい。いまのゲリラ騒ぎで搭乗員が拳銃を暴発し、弾丸が別の搭乗員の背中に命中したというんです」

 

暴発したのは杉山善鴻飛長、撃たれたのは加藤光郎飛長、二人とも長田の予科練同期生だった。

「痛みと苦痛で『痛いよう、痛いよう』『お母さん、痛いよう』と叫びながら暴れる加藤を押さえつけながら、ただ『頑張れ』としか言葉が出なかった。やがておとなしくなり、明け方に息を引きとりました。彼の両目の目尻からは涙が流れていました……」

あるときは空襲におびえながら平坦な水田地帯を歩き、またあるときは急峻な山道をトラックで走りながら、長田がようやくツゲガラオに到着したのは1月25日。じつに半月以上におよぶ行軍だった。