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戦場秘話…命がけでフィリピンを脱出した搭乗員、下された「非情命令」

「残るも地獄、去るも地獄」の戦場
神立 尚紀 プロフィール

航空隊が飛行機を失い「陸戦隊」に

昭和20年1月4日から5日にかけて、空母をふくむ艦隊に護衛された敵の大規模な輸送船団が、ルソン島の西側を北上しているのが索敵機により確認された。レイテ島をほぼ制圧した敵は、こんどはマニラ湾外を北上し、ルソン島西側のリンガエン湾から上陸してくるものと予測された。

フィリピンの日本軍は、すでに食糧も不足している。比較的優遇されていた海軍の航空隊でさえ、この頃になると食事は、朝、昼、晩ともにサツマイモだけ。直径60ミリほどのものなら1本、30ミリほどのものなら2本が支給されるに過ぎない。これから特攻に出撃する搭乗員にだけ、大きいサツマイモ2本と塩湯が供された。

1月5日、6日と、陸海軍の航空部隊はこの敵船団に向け、総力を挙げて体当り攻撃をかけた。米側記録によると、1月5日は豪重巡「オーストラリア」、米護衛駆逐艦「スタフォード」が大破したほか、護衛空母2隻、重巡1隻、水上機母艦1隻、駆逐艦2隻、歩兵揚陸艇1隻、曳船1隻がいずれも損傷を受け、1月6日は、掃海駆逐艦「ロング」が沈没、戦艦「ニュー・メキシコ」「カリフォルニア」ほか、重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦3隻がいずれも大破、ほかに駆逐艦4隻、高速輸送船1隻、掃海駆逐艦1隻が損傷を受けている。

 

それでも、1月6日、米軍はついに、リンガエン湾への上陸作戦を開始。日本側に飛べる飛行機はもうほとんど残っていない。翼を失った航空隊は、ピナツボ山麓に立てこもり、こんどは陸戦隊として戦うことになった。

「われわれ搭乗員も急遽、陸戦隊を編成し、手榴弾の投擲訓練など陸上戦闘の準備に入りました。草色の第三種軍装に編上靴、ゲートル、拳銃二挺、戦死者の遺品のなかから頂戴した日本刀を腰に差した、なんともお粗末な陸戦姿でした」

と語るのは、当時18歳の飛行兵長(飛長)で、零戦搭乗員だった小貫貞雄(のち一飛曹、戦後、杉田と改姓、工場経営。1926-2019)である。

小貫は、前年10月、第二二一海軍航空隊(二二一空)の一員としてフィリピンに送り込まれ、すでに敵戦闘機との空戦を経験している。

10月末、クラーク基地群(ルソン島中部、クラーク・フィールドに設けられた11の飛行場)のアンヘレス基地で搭乗員整列がかけられ、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将がじきじきに特攻志願者を募ったさい、「一瞬、凍りついたかのようなその場の雰囲気に耐えきれず、意に反して一歩前に出てしまった」小貫は、特攻部隊に指定された第二〇一海軍航空隊(二〇一空)に転属となり、体当り出撃を待つ身だった。

第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が、整列した特攻隊員を前に訓示する。小貫貞雄はこのなかにいた
握手で特攻隊員を見送る福留繁中将。福留は昭和46年、80歳で歿。

「特攻隊に編入され、藁半紙と鉛筆を渡されて、遺書を書けと言われたんですが、そんな急に気の利いた言葉なんて出てこない。仕方なく、〈大和男の子と生まれ来て 明日は男子の本懐一機一艦 先立つ不孝をお許しください〉と書いて、最後に〈天皇陛下万歳〉とつけ加えた。『天皇陛下万歳』っていうのは便利な言葉で、最後にそう書いておけば、何となく軍人の遺書らしく恰好がつくんです。虚勢ですね。『顔で笑って心で泣いて』という言葉そのままの心境でしたよ。

それが、今度は陸戦隊になって玉砕するまで戦え、という。どうせ死ぬのなら、ジャングルのなかで腹を空かせたり、弾丸に当たって痛い思いをするより、飛行機でひと思いに死んだ方が楽だったかな、とも思いましたが、乗る飛行機がないのなら仕方がない。陸上戦闘の怖さを知らない我々は、山にこもる準備をしながら、仲間と日本刀を振り回して、『俺は宮本武蔵だ』などと、田舎芝居の役者気取りでした。

当時、私は飛行兵長(兵の階級)でしたが、よその部隊の兵隊にナメられないようにと、二階級上の一等飛行兵曹(下士官)の階級章を軍服の肘に縫いつけていても、誰にも怒られなかったですね。軍紀も緩んでたんでしょう」

小貫(戦後・杉田)貞雄飛行兵長(のち一飛曹)。志願者を募るさいの同調圧力に、意に反して特攻を志願してしまったという(右写真撮影/神立尚紀)

もう一人、前年12月に二二一空の一員としてフィリピンに着任した19歳の零戦搭乗員・長田利平飛行兵長(のち一飛曹、戦後神奈川県警刑事。1925-2019)は、特攻志願に応じないまま、幾度か敵機と空戦を交え、ロッキードP-38戦闘機を1機撃墜したものの、風土病のアメーバ赤痢に罹り、アンヘレス基地近くの医務室に入院中、米軍の上陸を迎えた。

「入院といっても病院らしい設備はなく、現地人から接収した洋館風の建物の板張りの部屋にアンペラ(むしろ)を敷いただけの病室に、病名を問わず多くの患者が雑魚寝をしているようなありさまです。赤痢患者に投薬はなく、絶食させられて、脱水症状を防ぐためお湯だけ飲んでいるような入院生活でした。

1月6日、敵が同じルソン島のリンガエン湾に上陸するらしい、海軍は陸戦用意が発令され、8日までにピナツボ山麓に入るらしい、という噂が病室内で流れた。私は、病人として医療部隊について行くより、戦友たちと一緒に行動したいと思い、病室を脱走して隊に戻ったんです」

山ごもりの準備は着々と進められていた。陸海軍が協議した結果、ルソン島の防衛線を17の区域に分け、海軍はクラーク防衛部隊として、ピナツボ山麓の「十一戦区」から「十七戦区」まで7つの地域に複郭陣地を構築することが定められた。航空隊や対空砲台、設営隊、フィリピン近海で撃沈された艦艇の乗組員など、15000名を超える雑多な将兵が全て陸戦隊となってこのなかに組み入れられ、糧食や弾薬を山中に運ぶ作業は夜を徹して行なわれた。

ただ、飛行機の搭乗員は、養成に時間がかかる上に飛行適性があって、誰でもなれるわけではない。翼を失った搭乗員はクラーク基地群に400名以上、ルソン島の各基地を合わせれば500名以上が残っている。

大西瀧治郎中将は、飛行機さえあればふたたび戦力になり得る搭乗員を陸上戦闘で失うのは惜しいと考え、フィリピンから脱出させることを決めた。だが、ルソン島中部に敵が上陸したいま、台湾からの輸送機がクラークまで飛ぶのは自殺行為に等しい。そこで司令部は、搭乗員たちを陸路、ルソン島北部のツゲガラオ基地に後退させ、そこから輸送機で台湾へ送ることを決めた。