昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場より発進する神風特別攻撃隊敷島隊
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戦場秘話…命がけでフィリピンを脱出した搭乗員、下された「非情命令」

「残るも地獄、去るも地獄」の戦場

いまから75年前の昭和20(1945)年1月、フィリピン・ルソン島の山中をひそかに行軍する数百名の日本軍将兵の姿があった。

飛行服姿の者もいれば草色の第三種軍装の者、半袖半ズボンの防暑服姿の者、なかにはランニングシャツに半ズボンという者もいる。武装といえば、めいめいが所持している拳銃と日本刀ぐらい。皆、一様に薄汚れた格好をして、顔は無精ひげだらけである。それは、どこから見ても敗残兵の群れだった。

 

大敗を喫し、編成された「特攻隊」

昭和19(1944)年10月17日、米軍が突如、レイテ湾口のスルアン島に上陸したのをきっかけに、フィリピンをめぐる日米の熾烈な攻防戦が始まった。

かつてアメリカが統治し、軍事拠点を置いていたフィリピンは、昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に日本軍の猛攻を受け、昭和17(1942)年5月に米軍が全面降伏、日本の占領下に置かれた。昭和18(1943)年10月14日、フィリピンは日本政府の支援のもと独立宣言を発し、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン共和国(こんにち、「フィリピン第二共和国」と呼ばれる)が誕生。日本は占領以来の軍政を廃し、新たに結ばれた日比条約に基づいて陸海軍部隊を引き続き駐留させていた。

すでにマリアナ諸島のサイパン、テニアンは敵手に落ち、この上フィリピンを取られたら、日本本土は周囲を敵に囲まれ丸裸同然になる。10月18日、日本海軍は「捷一号作戦」を発令、総力をもってレイテ湾に押し寄せる米上陸部隊を迎え撃とうとしたが、米海軍との「決戦」で、10月24日、戦艦「武蔵」が航空攻撃で撃沈されたのをはじめ、戦艦3隻、空母4隻をふくむ主要艦艇の多くを失い、レイテ湾突入を果たせないまま大敗を喫した。

このとき、基地航空部隊の少ない機数をもって、味方艦隊のレイテ湾突入を支援するため、敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にすることを目的に編成されたのが、爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に体当りする「神風特別攻撃隊」(特攻隊)である。

第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の命で10月20日に編成された特攻隊は、10月25日、のべ10機の体当り攻撃で護衛空母1隻を撃沈、3隻に損傷を与えるという、艦隊による砲撃や通常の航空攻撃を上回る戦果を挙げた。日本艦隊が壊滅、米上陸部隊への攻撃が失敗に終わったのちも、特攻隊は内地からの補充を受けながら次々に編成され、さらに陸軍も特攻に加わって、米軍の侵攻を少しでも遅らせるべく、多くの若者たちがまなじりを決して飛び立っていった。

最初に特攻隊を送り出した第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将。大西はのち軍令部次長となり、終戦を告げる玉音放送の翌日未明、割腹して特攻隊員の後を追った