1月28日 日本の白瀬南極探検隊が大和雪原に到達(1912年)

科学 今日はこんな日

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"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

1912年の今日、白瀬 矗(しらせ・のぶ、1861-1946)を隊長とする日本の南極探検隊が、探検行中もっとも南の地点である南緯80度05分 西経156度37分に到達、ここを大和雪原(やまとゆきはら)と名付けました。

【写真】白瀬中尉と南極探検隊の様子
  白瀬矗中尉と1910-1911年の南極探検隊の様子 photo by gettyimages

白瀬矗という人物

白瀬は、1861年7月(文久三年六月)に、秋田県出羽国由利郡金浦村(現・秋田県にかほ市)にある真宗の寺に生まれました。幼少時に入った寺子屋で、蘭学者である教師からコロンブスやマゼランなどの探検譚や、北極やイギリス・フランクリン探検隊の悲劇などの話を聞いて、探検や北極に対する興味を持ったと言われています。

小学校卒業後は軍人を目指して陸軍教導団(後の陸軍士官学校)を経て、1893年の予備役編入まで兵站を担う輜重兵科(しちょうへいか)下士官として務めました。

予備役編入後、幸田露伴の兄で千島開発に尽力した郡司成忠大尉が率いる千島探検隊(1893-1895)に参加したのが彼の探検人生のはじまりでした。

北極から進路変更?! 波乱含みでスタートの南極探検

かねてより、幼少時の夢であった北極点到達を志していた白瀬でしたが、1909年にアメリカのロバート・E・ピアリー(Robert Edwin Peary, 1856-1920)が北極点に到達したニュースを耳にし、目標を南極点に変更しました。

【写真】
  ロバート・E・ピアリー photo by gettyimages

あらためて南極に目標定めると、イギリスのスコット隊やノルウェーのアムンゼン隊へは、かなり競争心を掻き立てられていたようです。

関連の日:1月17日 探検家R・スコットが南極点に到達(1912年)

白瀬は、南極探検の費用を補助してもらえるよう帝国議会に働きかけましたが、議会は通過したものの、成功を危ぶむ政府が支給を渋り、渡航には木造帆漁船を買い取って蒸気船に改造するなど、経済的にずいぶん苦労しました。それでも、国民や議会は熱狂的に支持、船は東郷平八郎によって「開南丸」と命名され、後援会会長には大隈重信が就きました。

海南丸は、1910年11月に芝浦を出航し、ニュージーランドのウェリントン経由で1911年の5月にオーストラリアのシドニーに入港。南半球が夏になるまで待機ののち、1912年の1月に南極大陸に到達しました。

その日は、ちょうどスコットが南極点に到達したころで、さらに南極上陸適地と言われるロス海のクジラ湾(Bay of Whales, Ross Sea)に回航する際にはアムンゼン隊(Amundsen's South Pole expedition)の「フラム号」(Fram)とも遭遇しています。

最南地点への到達

白瀬隊は、1月16日にクジラ湾到着、20日に極点到達隊が極点へ向けて出発しました。しかし、この時点で、残存食料や装備、隊員士気などから、白瀬は極点到達が難しいことを覚悟していたようで、目的は南極における領土の確保と、学術的な調査に主眼が置かれていました。

【写真】ロス海
  ロス海の風景 photo by gettyimages

連日、午後に出立して夜半に設営するという行程を繰り返し、1月28日午前0時、設営地点に到着、就寝ののち11時に起床、現位置を観測し「南緯80度05分」であることを確認し、ここをもって探検最南端地点として、午後0時20分に白瀬が「大和雪原」と命名したのでした。極点への到達は成らなかったものの、はじめて日本人の足跡を南極に残すことができました。

【写真】大和雪原に到着した白瀬隊一行
  後援会による『南極記』に載った、大和雪原に到着した白瀬隊一行の写真 photo by National Diet Library Digital Collection

また、この探検中に南極の気象や動植物の記録、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石などは、当時は貴重な学術的資料として、大切に持ち帰られました。

*注・現在、大和雪原は陸上ではなく、ロス海のロス氷棚上であることが判明している

白瀬隊を乗せた海南丸は、1人の犠牲者も出さずに1912年6月に帰港、迎え受ける国民の歓喜の声が沸きました(白瀬ら、一部の者は別便で帰国)。

探検のために生きた白瀬

しかし、白瀬探検隊は、隊の内部での内紛や諍いが芝浦を出港して以来絶えず、隊長である白瀬自身も身の危険を感じるなど、人間関係などの問題を抱えていました。留守を守る後援会でも、会費の使い込みなど、不明瞭な会計などが露見しました。

白瀬は、探険の総費用推定120,000円〜125,000円のうち、一般からの募金を差し引いた、40,000円近くの借金をすべて負うことになってしまいました。帰国後の白瀬は、講演や南極でのフィルム上映会などで、借金返済に苦しみました。

終戦直後、貧しいながらも、ようやく平穏な老後が訪れた白瀬は、娘と孫が間借りしていた部屋で、久しぶりの白飯の食事を堪能した直後、腸閉塞で世を去りました。1946年、86歳のことでした。

「大和雪原」(やまとゆきはら・Yamato Yukihara)という地名は、国立極地研究所南極地名委員会が正式に付与し、国内関係機関はもとより、南極研究科学委員会(Scientific Committee on Antarctic Research :SCAR)を通じて各国の南極関係機関へ通知され、認知されています。

探検に生きた白瀬の夢は、南氷上にしっかりと刻まれたのです。

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