この1月に時間に関する著書『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』(講談社ブルーバックス)を上梓したが、その執筆中、しばしば道元に思いを馳せた。厳格な仏教思想を流麗に表現する達人だった道元は、『正法眼蔵』「有時(うじ)」の巻で時間論を展開している。
人は、自分という人間が時間から独立した実体で、この実体が時間の流れとともにさまざまな体験をすると考えがちである。しかし、仏教は、こうした見方を我執だと切り捨てる。
自分は実体ではなく、仏が一時的に自分という姿をとって現れたにすぎない。道元は、山を越え河を渡って、壮麗な宮殿に到着するケースを例に説明する(前者は修行の、後者は悟りの比喩である)。
宮殿を目の当たりにした自分からすると、山河にいる自分は過去のものであり、今なお山河が存在するとしても、自分とは遠く隔たっていると思うだろう。だが、道元は、それは一面的な見方だと喝破し、次のように断言する。
「いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず」
道元の「われ」は、仏の現れとしての本来の自己を意味する。
引用した文は、「修行中だった過去にも本来の自己が存在するのだから、自己は必ず時間とともにある。過去が消滅するのではなく、どの瞬間にもその時刻における自己がある」という意味になろうか。
時間が過ぎ去るという見方を批判し、過去の出来事について「彼方にあるににたれども而今(にこん)なり」と語る。「而今」とは、道元の時間論の要となる概念で、素朴に言えば「今このとき」。過去も未来も、本来のあり方という観点からすると、すべて而今なのである。
道元によれば、時間的・空間的に拡がった世界の至る所に、本来の自己が存在する。
「われを排列(配列)しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物(ずずもつもつ――個別的存在者)を、時時なりと覰見(しょけん――深く理解すること)すべし」
「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり」
──世界は、多数の存在者が関係性を保ちつつ連結されることで構成されており、時間の流れと感じられるものも、そうした連なりだという。この主張は、現代科学の見解と矛盾しない。