正面から男女の交歓を描いた
「エロスの使徒」としての功績
永井荷風Vol.3

vol.2はこちらをご覧ください。

 世俗道徳の嘲笑者としての荷風(「祝盃」)、そして青春の無垢に忠誠を誓う荷風(『すみだ川』)、という二つの相貌とともに、悦楽の、エロスの使徒としての荷風がいる。一般的には、そのイメージが強いかもしれない。

 たしかに近代日本文学において、荷風はエロチシズムの先駆を担っていたといってよいだろう。平安朝の時代から、江戸までの好色文学に、ヨーロッパの頽廃を取り入れた事で、新機軸を作りだした功績は、まず荷風に帰せられるべきであろう。荷風がいなければ、谷崎も川端も存在しなかったかもしれない。

 その作のなかでも、大正七年に上梓された『腕くらべ』は、会心作であろう。「会心作」というのは、エロスをめぐるドラマを憚る事なく展開したという事だろう。殊更な云い訳も、隠し事もなく、男女の交歓を―もちろん歓楽の淵を彩る人生の機微はあるが―正面から書いている事だろう。

家庭人、教育者の身分を捨て

 保険会社の重職にある吉岡は、若い時に馴染んだ新橋芸者、駒代と偶会する。七年前、大学を出た頃につきあった二人は、吉岡が留学したため関係が絶えた。駒代もほどなくひかされて、人妻に納まった。けれど夫の死後、嫁ぎ先に居にくくなり、新橋に舞い戻ってきたのだった。

 吉岡は、立場上、懇意にしている芸者がいるのだが、昔の女に興味を持ち、駒代を呼ぶ。

 久しぶりなのに泊まるのは、と憚る駒代を吉岡は許さない。

「男は烟草を吸いながら駒代の腰から胴中をくびれるほどにした長い長い緋羽二重のしごきの一巻一巻に解きほどかれて敷いた着物の裾の上に渦巻くのをじっと眺めていたが、七年前まだ二十になるかならずの時にもこういう場合には割合に年増らしくませた取なしに馴れていた駒代、相応に苦労もして今は正に二十五、六、女の中での女になりきった身は定めしまた一倍、昔にくらべてどんな様子かと思うと、遊馴れただけに吉岡は始めて逢う女よりも一層激しい好奇心にわれとわが胸の轟くのを覚え、長いしごきの解けきるのが待ち遠しいほどに思われた。(中略)

 駒代はぬぎ捨てた着物立ったなりに踵で静に後へ押遣る傍、今まで気づかずにいた女物らしい浴衣の寝衣。それと見ればやはり女気のあたら大事な長襦袢を汗にするでもないと慾を出し、『ああ浴衣があったわ。』とひとり言。吉岡はまたもや身仕度に手間どれてはと少しやけな調子で、『いいじゃないか。』といったが、駒代は博多の伊達巻の端既にとけかかったのをそのまま手早く解きすてると共にこちらに向いたなりで肌襦袢重ねたままに蛍草の長襦袢ぱっと後へぬぎすてたので、明い電燈をまともに受けた裸身雪を欺くばかり。吉岡は我を忘れて、駒代が浴衣を取ろうと折りかがんで伸す手をいきなり掴んでぐっと引寄せた」

 ちょっと長い引用になってしまったが、閨房に入る女の打算、男の期待と焦れ、そして何よりも身体、衣装、光の交錯を微分して積み重ねていく手際の、粘っこさには敬服するしかない。

 吉岡は駒代に執心し、落籍させて妾にしようとするが、一度、素人になった事がある彼女は、心底相手を信用できず、踏ん切りがつかない。その間、かつて若い頃、ともに花柳の稽古場に通っていた俳優、瀬川一糸と再会する。一糸は、今や名題になっており、駒代は逢瀬を重ね一糸に入れこみ、女房にして貰おうと念じる。

 そのために無理な算段を駒代は強いられ、「海坊主」と仇名される横浜の骨董商潮門堂の伽を務める。「海坊主は茶屋の女将に、誰か相応の女で役者に入れ上げて金がほしくてならないとか、借金で首がまわらないとかいうものはいないかといつも物色するのである。金という餌を目の前に置き、それがほしいばかりに女が口惜涙をこぼしながら醜怪なこの海坊主の醜行をこらえ忍ぶ様子や振合を冷然と上から見下す可笑さ面白さ気味のよさ。根が横浜育ちの素町人罪の深い下等な遊びが生命である」

 明治四十三年、永井荷風は、慶応義塾大学文科の教授となった。最初、教授の推薦を委嘱された森鴎外は、夏目漱石に話をもっていったが、断られたという。

 とはいえ、正当な学歴を持たない荷風にとって教授の座は得難いものであったし、何よりも父を安心させるという点では大きな意味があった。そしてまた、荷風の膝下から、佐藤春夫、久保田万太郎、堀口大学、水上瀧太郎らが輩出したのだから、慶応としても荷風の就任は大きな益があった。

 明治四十五年九月には、本郷の材木商斎藤政吉の娘、ヨネと結婚している。

 ところが、大正二年一月に父が死ぬと、まず妻を離縁し、ついで三年後には慶応義塾も辞めてしまうのだ。義塾側が、荷風が編集長を務めていた『三田文学』にたいして、編集企画のみならず予算にまで容喙してきた、という事情があるにしろ、唐突の感は否めない。

 いずれにしろ、家庭人、教育者という身分を脱したところでしか、『腕くらべ』の世界が成立し得なかった事は間違いあるまい。

 『腕くらべ』冒頭、吉岡と駒代の邂逅の場は、帝国劇場に設定されている。

帝国劇場 東京千代田区にあり、「帝劇」の愛称で知られる。現在の同劇場は昭和41年に完成

「幕間に散歩する人たちで帝国劇場の廊下はどこもかしこも押合うような混雑。丁度表の階段をば下から昇ろうとする一人の芸者、上から降りて来る一人の紳士に危くぶつかろうとして顔を見合わせお互にびっくりした調子・・・」

 帝国劇場は、渋沢栄一ら財界人の呼びかけで、横河民輔の設計、施工により建設された。明治四十四年三月一日にこけら落としが行われた。ルネサンス風五階建て、すべて椅子席という日本最初の完全な洋式劇場だった。旧来の芝居茶屋が主導してきた興行を廃し、場内での飲食も禁止された。

 帝都に西洋に負けない劇場を、という意気込みは、文明開化の総仕上げという趣きもあったが、同時にまたそれは、質実剛健、富国強兵の時代の終焉を物語るものでもあった。益田鈍翁の長子、益田太郎冠者の『コロッケの唄』が大ヒットになり、「今日は帝劇、明日は三越」という享楽的気風が世間を覆っていた。その点では、『腕くらべ』の第一景には、誠にふさわしい。

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