2月 1日 医師・山脇東洋が生まれる(1706年)

科学 今日はこんな日

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"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

1706年のこの日(宝永2年12月18日)、山脇東洋(1705-1762)が京都の町医者・清水立安のもとに生まれました。

 

東洋は父の死後の1726年、父の師である山脇玄修(1654-1727)にその才を認められ養子になります。

養子となった翌年に養父の玄修が逝去、さらに明けた1978年に山脇家の家督を継ぎました。東洋の医学の本格的な修養は、山脇家の養子になってからのようですが、父亡き後は、医学理論家で華岡青洲の師だった吉益東洞(よします・とうとう、1702-1773)に影響を受け、また古医方(古方派)を開いた後藤艮山(ごとう・こんざん、1659-1733)に師事しました。

古医方とは、後漢終わりの名医、張機(ちょう・き、またの名を張仲景〈ちょう・ちゅうけい〉、? -216)の医説・医方を奉じた学派です。張機の名著にして漢方医学の大著『傷寒雑病論』に含まれる、おもに感染症の治療を記した『傷寒論』と、病気別の治療法を網羅した『金匱要略方論』に影響を受けていました。

張機の医方は、唐の時代に見直され(金元医法)、15世紀末以降に日本にも導入されました。しかし、金元医法が理論倒れの傾向にあったため、張機時代の医方に立ち返ろうとする考えが日本で現れ、この考えに基づく医法が古医方と呼ばれるようになったのです。

古医方は、後に西洋医学の広がりとともに衰微していきますが、今日の日本での漢方医学はこの古医方の流れを汲んでいます。

東洋が師事した後藤艮山は、この古医法を1つの学派として確立させた開祖とされる医師です。彼は、人間の体を含めた自然の運動を司る「気」が滞ると病になるという説「一気滞留」を唱え、また、金元医法が理論一途なため空疎になったことを省みて、実証を大切にすることを大切に考え、弟子である東洋にもそれを伝えたのでした。

山脇東洋山脇東洋 Photo by Kodansha Photo Archives

こうして実証を重んずるようになった東洋は、師の進言で、人間と内臓の構造が似ているカワウソを解剖するなどしましたが、成果は得られませんでした。

パドヴァ大学教授・ヴェスリングの解剖書『解剖学の体系』(1641年刊行)にも感化され、東洋は虎視眈々と人体解剖の機会をうかがっていました。

そんな折、京都で罪人が処刑されることになり、東洋は京都所司代の酒井忠用(さかい・ただもち、小浜藩主)へ、弟子にして小浜藩医の小杉玄適(1730-1791)らと解剖の許可願いを提出します。3代続く宮廷医家の名門と自藩の藩医からの願い出であり、さらに請願書の格調高い名文に心を動かされたこともあり、酒井は東洋の願いを受け入れます。

そうして1754年3月30日(宝暦4年2月7日)、斬首刑に処された5人の罪人のうち、埋葬が遅れた1人の解剖(腑分け)が行われました。東洋らによって観察された胸腹部の内部の記録が5年後の1759年に『蔵志』としてまとめられます。

『蔵志』は斬首された死体を扱ったものなので頭部の記録がないなど粗さも目立ちましたが、初めての解剖のありさまを生々しく伝えており、のちに『解体新書』を刊行した杉田玄白らに大きな影響を与えました。

杉田や前野良沢による有名な腑分けの見学は、1762年に東洋が没してから9年後にあたる1771年。『解体新書』は1774年に刊行されることになります。