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ライジング社長・平哲夫の告白「僕が荻野目洋子に全てを賭けるまで」

二人のヒットメーカー【第一回】

かつて安室奈美恵をはじめ、SPEED、DA PUMPなど「沖縄発」の数々の才能を見出し、鍛え上げ、国民的スターへと育てた男たちがいることをご存知だろうか。

ライジングプロ・ホールディングス代表取締役・平哲夫と、沖縄アクターズスクール校長・マキノ正幸。ともに70歳を超えてなお、二人は音楽とパフォーマンスの世界に身を置き続けている。

密接な関係を持ちながらも、これまで同時に語られることのなかった二人の半生に、ノンフィクション作家の田崎健太が迫った。芸能史に深く刻まれたその足跡をたどる巨弾連載。(文中敬称略)

 

「平成のヒットメーカー」の青年時代

流行歌が消えて久しい──。

嗜好の多様化、世代の分断、テレビという一方向発信メディアの衰退、レコード会社の収益モデルの崩壊──様々な原因を挙げることが出来る。そんな中でも、人々の心に触れる曲を生み出せると信じている男たち──ヒットメーカーがいる。

その一人が平哲夫だ。

平は一九四六年八月に福島県中通りの本宮町(現・本宮市)で生まれた。実家は本宮駅から繋がる商店街で『水戸屋』という青果店を営んでいた。

「小学生ぐらいのときに、スーパー(マーケット)が出来て、いずれ太刀打ち出来なくなるねって父親が話していたことを覚えています。ぼく自身、八百屋をやりたいとも思わなかった。果物屋って、市場で仕入れてきて売るだけ。ぼくはそれよりも物を作ることの方が興味があった。農業はリスクがずっとある。仕入れてきてただ売るだけで、あんまり儲けちゃいけないんだろうなって、思っていましたね」

ただし、具体的に夢を持っていたわけではなかった。例えば、中学生のとき、どんな将来を思い描いていましたかと質問すると、「その頃は非行少年になっちゃいましたから」と口をつぐんだ。

ただ、中学卒業前の半年間、江東区深川にあった父親の従兄弟の家に預けられたのだと教えてくれた。それは「田舎にいたらグレちゃってしょうがない」という理由だったという。