フリー編集者の上松容子さんは、両親が30代のときに生まれたひとりっ子。東京で生まれ育ったが、両親は仲良く元気で、両親の兄妹も都内にいた。しかし父ががんで急逝すると、「ていねいな暮らし」をしてきた母・登志子が一気に認知症を発症したのだ。

上松さんには、実母と一緒に暮らせない事情も抱えていた。そこで相談したのが、しっかり者として町内でも有名な、母の実家に暮らす母の実姉・恵子だった。母と暮らすことを喜んで引き受けてくれ、ほっとしたのも束の間、実はその実姉も認知症の疑いがあり、どんぶり勘定で生活費も母の年金を頼っている現状を知る。

これは、名前のみを変更したドキュメント連載である。第5回となる今回は、母と伯母とが暮らす伯母の「ゴミ屋敷」を片付けようとしたときの衝撃の話をお伝えする。

上松さんの今までの連載「介護とゴミ屋敷」こちら

お前んち、お、ば、け屋敷〜!

母と伯母の実家はごく普通の住宅街にあった。一家が疎開先の秋田から戻って、ようやく見つけた安住の地だった。

祖父母は、ごく狭い通路の奥にスペースが開ける、いわゆる「旗竿」状の宅地を購入し、平屋の日本家屋を建てた。四畳半の部屋には炉を切り、お茶会が開けるようにしつらえた。後々、2階を増築し、そちらにも茶室を作った。ずいぶんと贅沢な話である。

庭は狭かったが、花や果実を楽しむ樹木が植えられ、下草は日本の山野草。とりわけ多かったのは、ツバキの樹だった。冬から早春には、さまざまな色と形状の花が咲き、シジュウカラやメジロ、オナガといった野鳥が花の蜜や花びらを食べに来たものだ。

そんな家が、近所の小学生から「おばけ屋敷」と呼ばれるようになった。旗竿の通路に、カリンやヤマブキ、ムラサキシキブなどの植物が枝を伸ばし、掻き分けなければ通れないほどになったので、子どもたちにとっては無気味な存在でしかなかったのだ。たまたま私が訪れたとき、数名の男の子が入り口で「肝だめし」よろしく出たり入ったりしていた。「お前行けよー」「やだよー」と押し合いへし合いしている。私が「こんにちは!」と声をかけると脱兎の如く逃げていった。

近所に木の生い茂った古い家があると、子どもたが興味を引くのはいつでも同じこと(写真は本文とは関係ありません) Photo by iStock 

その日は、晴子叔母やいとこのユカと、大掃除をする約束になっていた。45リットルのゴミ袋と軍手など用意し、アポなしで掃除をするのである。連絡して訪問の意図を伝えたら、家に上げてもらえなくなるからだ。

突入、準備完了。