病に倒れた講談社社長の耳に届いた「1千万人の歌」

大衆は神である(83)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦後、教育格差が解消して大きく変容していく日本社会。出版界のリーダーとして激務をこなしていくなか、講談社社長・野間省一は病に倒れた。その闘病中の10年の間に、講談社では多くの人の心をつかんだ、「ある企画」が誕生しようとしていた――。

終 章 戦後民主主義と講談社ジャーナリズム⑴

『昭和万葉集』

戦前の“雑誌王国”講談社が往年の勢いを完全に取り戻すのは、戦後の高度経済成長が本格化した昭和40年代に入ってからのことである。

昭和41~43年(1966〜1968)の間に講談社の雑誌売り上げは2倍となり、40年度は赤字だった雑誌部門が大幅黒字になった。また『週刊現代』『小説現代』『婦人倶楽部』『若い女性』『週刊少年マガジン』の5誌がそれぞれのジャンルで売り上げトップに立った。

当時、私は中・高校生で、勉強や部活の合間に『週刊少年マガジン』を貪り読んだのを覚えている。何しろ、半世紀たった今も傑作漫画として語り継がれる「巨人の星」と「あしたのジョー」が一つの雑誌で同時連載されたのである。夢中にならないほうがどうかしている。

昭和46年(1971)、脳血栓で倒れた省一は危うく一命を取りとめたものの、左半身不随になった。
『野間省一伝』によると、体が思い通りに動かず、喫煙などを医師から禁じられたため、いらいらが募った。省一は、「煙草を持ってこい」と命じたのに持ってこない付き添いを自由のきく右足で蹴ったり、妻の登喜子を右手でつねったりして自分の思い通りにさせようとした。

しかし、書協事務局長の佐々木繁が見舞いに行くと、
「僕は、自分が病気で倒れて、はじめて病人の苦しさがわかった。社員で病気になったとか、その家内が病気になったとかよく聞いたが、自分が病気してはじめて病人の苦しさや、病人を抱えた家族の者がどんなに大変であるか、よくわかった」
と言って、涙ぐんだという。

省一の苦しい闘病生活はそれから10年以上つづいた。その間に、講談社に起きたさまざまな出来事の中で一つだけ選んでここに記すとすれば、それは、彼の最晩年に『昭和万葉集』全21巻(別巻を含む)が刊行されたことだろう。

『昭和万葉集』には、「出版物は、その時代、その民族の文化の水準を示すバロメータ」で「人類の共有財産」だという省一の理念が結晶化されている。そんな“奇跡”がどういう経過をたどって実現したのかをご説明しておくのも決して無駄ではないと思う。

なお、以下の記述は、社史『物語 講談社の100年 第六巻 伸張』に依拠したものであることをあらかじめお断りしておく。

もっと大きく膨らませて

はじまりは昭和47年(1972)の春だった。学芸第一部の副部長・菅野匡夫(すがの・まさお)が講談社現代新書の一冊として「昭和秀歌」という企画を思いついた。

菅野は東大仏文科卒、とりたてて短歌の素養があったわけではない。大学受験のとき岩波新書の『万葉秀歌』(斎藤茂吉著)を読んだことがあるぐらいだ。ただ、菅野は知人を通じて歌人の宮柊二(みや・しゅうじ)を知っていた。宮は『朝日新聞』に設けられた「朝日歌壇」の選者の一人だったから、宮を選者にして昭和の秀歌集を編むことは可能だと考えたのである。

ところが、学芸局長の加藤勝久(かとう・かつひさ)はその企画を見て「案はいいけれども、もっと大きく膨らませて、『現代の万葉集』とか『昭和の万葉集』のようなものにならないか? ちょっと一人で研究してみてよ」と言った。

加藤は戦後の混乱期に東大の国文科に学び、卒論に「現代短歌」を選んだ男である。講談社に入ってからも俳人の鈴木真砂女(すずき・まさじょ)や詩人の八木重吉(やぎ・じゅうきち)、歌人の吉野秀雄(よしの・ひでお)などの書籍をいくつも手がけてきた。菅野の企画は、その加藤の歌心を刺激したのである。

しかし、せっかく加藤の賛同を得たのに、菅野はその企画をペンディングのまま放置した。菅野が本格的に動き出すのは、2年後の昭和49年(1974)1月、局長兼務で役員に就任した加藤から「昭和秀歌」のその後の進展状況を訊かれてからだった。

それから菅野が企画の骨格を固めるためにとった方法はユニークなものだった。彼は自分が短歌の「まったくの門外漢」であることからはじめた。そして「万葉集のようなもの」を考えるために、まず古代の「万葉集」がもつ「体温」を感じようと、歌を暗記することを思い立つ。

そして、毎日何首かの暗記を志したのだが、これはどうにもはかばかしくなかった。あまりにも古典でありすぎて意味すらわからない古語の世界なのに、それを言葉のリズムだけで覚え込もうとしたところに無理があった。

そこで目標を斎藤茂吉の秀歌に変え、毎日の通勤電車で5首ずつ暗記した。この試みは成功し、次は会津八一(あいづ・やいち)の歌をというようにして「和歌の心」を身体になじませていった。そうして再び「万葉集」に返ると、不思議なことに今度は歌のリズムがスムーズに身体に入っていったという。