江戸の大火に襲われたオランダ商館長ワーヘナールの手紙から伝わるもの

明暦の大火の混乱と日本人の強い責任感
フレデリック・クレインス プロフィール

ワーヘナールの2通の手紙

筆者はこれまでワーヘナールに興味があって、彼の日記を中心に明暦の大火などについて調査・分析を行ってきた。日記にはワーヘナールの経験したことや見聞したことがきわめて詳細に記録されているからである。

 

以前から、明暦の大火について書かれたワーヘナールの手紙の存在についても知ってはいた。一刻も早く読みたいと思っていた。なぜなら、日記は、その日その日の出来事を羅列的に記述する傾向があるのに対して、手紙では、最も印象に残ったことを伝える傾向があるからである。大変な経験をしたワーヘナールが明暦の大火をどのように振り返って、手紙の受取人に伝えたのかを知りたかった。

オランダ商館関係の主要な文書についてはスキャンデータを手元に置いているので、いつでも見ることができる。しかし、このところずっと、さまざまな締め切りに追われて、スキャンデータの中からワーヘナールの手紙を探し出す時間が捻出できなかった。年末になって一区切りついたところで、ようやくその作業に向かう時間ができた。早速スキャンデータの入っているハードディスクのUSBをパソコンに差し込んだ。

1657年分の送受信書簡が所収されている冊子のデータを開いて、探したところ、明暦の大火について書かれている2通の手紙を見つけた

長崎オランダ商館の1657年付送受信書簡の表紙(ハーグ国立文書館所蔵)

そのうちの1通は、ワーヘナールが1657年10月12日に長崎で、オランダ東インド会社の総督に宛てて書いたものである。これは、貿易業務を終える毎年の秋に、総督宛に出す1年分の商館活動の報告書として書かれている。約20頁から成るこの手紙には、明暦の大火のことが極めて詳細に記述されている

ワーヘナールによる総督宛書簡、長崎、1657年10月12日の冒頭部分(ハーグ国立文書館所蔵)

明暦の大火に関して手紙と日記で記されている内容を比較すると、両方とも報告書としての性格が強いからか、概ね同じものになっていることが判明した。とはいえ、日記にはない、いくつかの興味深い記述も見つけた。これについては後述する。

大阪から長崎へ送った、もう1つの手紙

次に、もう1通の手紙に目を向けた。後付け部分によると、この手紙は1657年3月23日に大坂で書かれたものである。明暦の大火が発生した2週間後のことである。

ワーヘナールによる長崎オランダ商館員ウットヘンス宛書簡、大坂、1657年3月27日(1)(ハーグ国立文書館所蔵)
ワーヘナールによる長崎オランダ商館員ヨアン・ウットヘンス宛書簡、大坂、1657年3月27日(2)(ハーグ国立文書館所蔵)

日記の方で、この時期に記された情報を確認すると、ワーヘナールは明暦の大火が起こった6日後の1657年3月9日に江戸を去り、東海道に沿って西に向かった。大坂に到着したのは、3月23日の午後だった。

宿に着いたところでワーヘナールは、長崎の商人が大坂にいて、その日の夕方に長崎に向けて出立する予定だと通詞・名村八左衛門から聞き知った。これを受けてワーヘナールは、江戸での体験を伝えるために大急ぎで長崎オランダ商館で留守を預かっている商務員ウットヘンスおよびほかの商館員たち宛に手紙を書いて、その長崎の商人に託した

このことは日記の3月23日条に記録されている。先ほどの大坂から出された手紙の日付と一致している。したがって、日記の方で急いで書いたと言及されている手紙は、ハーグ国立文書館に現存している手紙のことだと判明する。

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