避難民が殺到する浅草門(『むさしあぶみ』国立国会図書館所蔵)

江戸の大火に襲われたオランダ商館長ワーヘナールの手紙から伝わるもの

明暦の大火の混乱と日本人の強い責任感
1657年に発生し、江戸の中心部のほとんどを焼き尽くす大災害となった「明暦の大火」。将軍に謁見するため、たまたま江戸を訪れていた当時のオランダ商館長、ザハリアス・ワーヘナールが残した日記からも、混乱した避難の様子を知ることができる

実は、ワーヘナールは日記だけでなく手紙にも、未曽有の大災害の模様を書き残していたという。新たな資料から浮かび上がる明暦の大火の模様、そしてオランダ人から見た日本人の姿を、『江戸の災害』の著者フレデリック・クレインス氏が解き明かす。

なぜオランダに明暦の大火の記録があるのか

1657年3月2日、毎年の慣例に従って将軍に謁見するために江戸に滞在していたオランダ商館長ザハリアス・ワーヘナールは、明暦の大火に遭遇した。現存するワーヘナールの日記に、炎の猛威から逃げ惑う体験が克明に記録されている。また、ワーヘナールによる明暦の大火についての記録は日記のほかに2通の手紙にもある

 

この2通の手紙は日記と同様にオランダのハーグ国立文書館に保管されている。なぜ、明暦の大火の記録がオランダの国立文書館に現存しているのか。その経緯について少し説明する。オランダ東インド会社は1609年に平戸でオランダ商館を設立した。商館は1641年に長崎の出島に移転し、幕末まで西洋人と日本人の交易の場として機能した。

商館では大量の文書が作成された。貿易関係の文書が主であったが、歴代の商館長が毎日付けていた日記や送受信の手紙も数多く残っている。これらの文書は出島で保管されていた。やがて、幕末になると、文書は一括してオランダのハーグ国立文書館に移管され、オランダ東インド会社のそのほかの文書と一緒に現在に伝わる

日記は1年分ごとに冊子にまとめられていた。また、受信した手紙の写しと送信した手紙の控えも1年分ごとに冊子に綴じられていた。下の写真は、筆者がハーグ国立文書館でオランダ東インド会社文書のうちの2冊の冊子を調査した時のものである。

ハーグ国立文書館でオランダ商館文書を調査する筆者(撮影=シンティア・フィアレ氏)

オランダ東インド会社文書の冊子の多くは写真にみられるものと同じような形態である。数十頁から成る薄い冊子もあれば、2000頁以上に上る分厚い冊子もある。ハーグ国立文書館に保管されている、これらのオランダ東インド会社の冊子を並べると、1200メートルもの長さになるという

出島による隔離が文書を守った

このように圧倒的な分量を誇るオランダ東インド会社文書の中に、平戸と長崎のオランダ商館の文書が含まれている。この平戸と長崎商館の文書はほとんど完全な状態で現存している。なぜだろうか。

長崎オランダ商館は、年に一度しかオランダ船が来航しない人工島(出島)にあった。また、この島への人々の出入りは長崎奉行によって厳しく管理されていた。このように隔離された場所に商館があったからこそ、文書の散失を免れたのだろう。

まして、文書は後任の商館長のための参考用としても大切に保管されていた。より参照しやすいように、各冊に目次や欄外索引までも付与されていた。商館文書はそれだけ頻繁に参照され、活用されていた。

このような整備された文書管理システムのおかげで、たまたま江戸で明暦の大火に遭遇した商館長ワーヘナールの日記や手紙も長崎オランダ商館で永らく大事に保管された後、ハーグ国立図書館に辿り着いた。