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社会主義復活のヤバい風潮が…!リーマンショック後の長期停滞の悲劇

若者は「競争社会」に不安を抱いている

「長期停滞」から抜け出すために

リーマンショック後の世界経済は「長期停滞」と呼ばれている。

この「長期停滞」という言葉は、2013年11月のIMFの会議の席上、米国の著名経済学者であるハーバード大学のローレンス・サマーズ氏が用い、それが徐々に普及、定着したものであるが、元々は、大恐慌直後の1938年の米国経済学会で当時の学会長であった同じくハーバード大のアルビン・ハンセン氏が提唱したのが最初であった。

 

1938年という年は、一旦は大恐慌による「デフレの罠」から脱出しかけた米国経済が再びデフレに見舞われた「1937年大不況」の翌年に当たる。この再デフレについては様々な理由が指摘されているが、結局のところ、デフレを克服できなかったという「絶望感」が国民の間に広がった。その後、米国政策当局は、第二次世界大戦に参戦するということもあり、戦時体制に突入していく。

戦時体制を、経済面でいいかえれば、「統制経済」ということになるが、有名な「ニューディール政策」はこの長期停滞を克服するために新たに構想された「統制経済政策レジーム」であった。

Franklin Delano Roosevelt (1882-1945)〔PHOTO〕gettyimages

「ニューディール政策」の代表的な政策は、インフラ投資等の公共投資、及び軍事支出拡大といった財政支出を、中央銀行であるFRBの低金利政策(1942年以降は、国債の各年限の利回りを固定するという「Bond Price Peg制」が敷かれた)でファイナンスするというものであった。

この「マクロ経済政策の組合せ」は、「積極的(Active)な財政拡張政策と受動的(Passive)な金融緩和政策」ということになろう。これは長期停滞を克服するために有効だと思われる政策の組合せ(ポリシーミックス)であることが、ブラウン大学のガウチ・エガートソン氏らによって提唱されてきたことは、当コラムにおいても度々指摘してきたところである。

ところで、当時の米国の経済政策をみるうえで注意すべきは、1930年代前半の「デフレからの脱却」に際しては、FRBによる金融緩和(特に、国債の積極的な購入による量的緩和政策)の効果が大きく、それほど大規模な財政出動を実施したわけではなかったという点である。せいぜい、緊縮的な財政政策ではなくなったという程度であった。つまり、当時のFRBは、金融政策主導でデフレからの脱却を実現させた。

だが、これは残念ながら「サクセスストーリー」にはならなかった。何故なら、このようなリフレーション政策を実施している最中から、当時も前例のなかった量的緩和の実施、及び、それにともなうゼロ金利状況の持続に不安を持ち、その結果、金融政策の正常化を急ぎ過ぎたことが再デフレにつながった可能性が高いからである。また、同時に増税を実施したことも人々の再デフレ懸念を強めた(これについても、ガウチ・エガートソン氏の先駆的な研究がある)。

このような、いわば、「拙速な経済政策の正常化」が、せっかく克服しかけたデフレという病をぶり返えさせることになったのだが、それであれば、大規模な金融緩和を再開すれば事足りるのかというと、そうではなかった。

拙速な政策転換は、人々の経済政策に対する「信頼性」」を著しく損ねた。そのため、1930年前半には成功した(金融政策に依存した)リフレーション政策を単純に繰り返したところで、それが再び成功するか否か疑わしくなったというのが、1930年代終盤の経済状況であった。

 

そこで、ルーズベルト政権は、経済政策の「レジーム」を本格的に変えようと試みた。これは、単に財政支出を大幅に拡大しただけではなく、経済のあらゆる側面で政府が積極的に介入するというものであった。

例えば、価格上昇を意図したAAA(農業調整法)による農産物の生産制限やデフレによる労働需給の緩和の悪影響を払拭することを意図したNIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や賃金の確保、「ワグナー法」による労働者の権利拡大といった政策である。

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