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特攻に駆り立てた「一撃講和論」 採用された背景にあったものとは

なぜ特攻ははじめられたのか②
特攻隊員の本当の姿を描き出した、一ノ瀬俊也氏の『特攻隊員の現実』が反響を呼んでいる。前回に引き続き、「特攻はなぜ始められたか」について本書の序章からご説明したい。

一撃講和論

天皇や伏見宮たち陸海軍はサイパン島の奪回こそ諦めたが、戦争自体の継続では一致していた。連合国は日独に無条件降伏を要求していたし、日本はまだ広大な占領地を保持し、本土への直接上陸を許してもいなかったからである。だが、どのようにして戦争を終結させるかの展望は指導者層、そして国民にも示す必要があった。

そのさい戦争終結構想として唱えられたのが「一撃講和論」である。その内容を端的に示すのが、陸軍大将・東久邇宮稔彦王の一九四四年七月一一日の日記の「わが海軍は、なお最後の一戦をやる余力があるから、陸海軍の航空戦力を統合して、アメリカ軍に一撃を加え、その時機に和平交渉をするのがよい。これがためには、陸海軍統帥部の一元化と航空戦力の一元化を、急速に実施しなくてはならない」という記述である(東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』)。

 

「最後の一戦」すなわち決戦で米軍に一撃を加えて有利な立場を築き、そのうえで和平交渉をおこなうというのである。ほかに戦争終結の見込みは思いつかないので、米国側が一度負けたぐらいで和平交渉に応じるかについては、考えないことになっている。

現在の目からすれば、どうせ降伏に追い込まれるのであれば、はやく降伏していれば沖縄戦や原爆投下、ソ連参戦も避けられたと思う。しかし当時の戦争指導者たちはそうは考えなかった。

内閣総理大臣・陸軍大将の小磯国昭は敗戦後の一九四九年、日米戦史編纂を担当していたGHQ(連合国軍総司令部)歴史課のヒアリングで「負け戦と云うことを承知している政府が、ここで直ぐ講和をすれば苛酷な条件に屈伏せねばならず、勝っているとのみ信じている国民は之に憤激して国内混乱のもとを為すであろう」、「今度会戦が起りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう、勝った余勢を駆って媾和すれば条件は必ず幾らか軽く有利になる訳だと思ったのです」と回想している(佐藤元英・黒沢文貴編『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料(上)』)。

注目すべきは、東久邇宮や小磯の唱えた一撃講和論が、長いあいだ戦争に協力してきた国民の怒りを引き起こさないための選択であったこと、そして戦いの決め手が陸海軍の航空戦力であったことだ。

ここに、航空への期待が高まる。陸軍側の航空のトップである陸軍航空総監兼航空本部長・中将の菅原道大は、四四年七月二七日の日記に「今や対米勝利を得がたしとするも、現状維持にて終結するの方策を練らざるベからず。之れ、最後に於ける敵機動部隊等に対する徹底的大打撃なり」と記した(偕行社編『菅原将軍の日記』)。

菅原は対米戦争を「現状維持」、つまりかろうじて対等なかたちで終わらせるには、侵攻してくる米軍の機動部隊になんとかして大打撃を与えねばならない、と考えていた。それまで陸軍航空は敵艦船ではなく、飛行場や都市などの地上目標を対象に訓練を重ねてきたが、もはやそんな悠長なことは言っていられない。

本来、敵機動部隊の撃滅は海軍の任務であった。そこで海軍は四四年一〇月、マリアナ諸島に続いてフィリピン・レイテ島に来襲した米機動部隊に向けて、初の体当たり攻撃隊・神風特別攻撃隊を出撃させた。このことは、「身を捨て国を救う崇高極致の戦法」と国民に説明された(『朝日新聞』四四年一〇月二九日付)。

陸軍もこれに続き、内地で万朶隊、富嶽隊と称する二つの特攻隊を編成し、決戦場フィリピンへ向かわせた。両隊とも目標は米軍の空母をはじめとする艦船である。この航空特攻は四五年八月一五日の終戦まで続く。

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