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高度成長期に大ブーム…反戦平和教育と共存した「戦争漫画」の遺産

『紫電改のタカ』から『この世界の片隅に』
神立 尚紀 プロフィール

町に「軍隊経験者」が溢れていた時代

こんな、戦後一時代を築いた少年雑誌の戦争漫画は、いつ生まれ、どのように消えていったのだろうか。

昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦とともに、それまで一般には知らされていなかった軍事機密の暴露記事が新聞各紙をにぎわせるようになった。

たとえば、「紫電改」という戦闘機の名前と存在を明らかにしたのは、昭和20年10月6日の朝日新聞がおそらく最初である。続いて、人間魚雷と呼ばれる特攻兵器「回天」、パナマ運河爆撃に出撃するはずだった潜水空母「伊四百型」、エンジンとプロペラを機体後部に載せた斬新な前翼型の戦闘機「震電」などの存在が次々に報じられる。

10月22日の毎日新聞では、〈秘密の翼 終戦期の海軍新鋭機〉の大見出しで、紫電改をはじめ海軍の新鋭機が写真入りで特集され、〈生産競争に惨敗 質は世界の最高水準〉と、やや負け惜しみ的な中見出しとともに紹介されている。

 

ところが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が9月21日に発布したプレスコード(報道統制規則)が効力を発揮するようになり、11月、民間航空全面禁止の指令が出されるとともに、新聞からも旧軍の飛行機に関する記事が消えた。

それから5年。昭和25年、GHQによる日本の航空運航禁止が解除されることが決まり、昭和26(1951)年9月、サンフランシスコ平和条約が調印された前後から、太平洋戦争を回顧する本の出版が急増、航空雑誌や旧軍機の記事も息を吹き返す。プレスコードが失効し、すでに日本国憲法によって保障されていたはずの「表現の自由」が実現したのは、平和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日のことだった。
 
昭和28(1953)年、出版協同株式会社から出版された『坂井三郎空戦記録』(実際の執筆者は同社社長の福林正之)が大ベストセラーになる。戦争前期、まだ優勢を保っていた時期に連合軍機をバタバタと撃ち墜とす零戦の姿は、同じ年に始まったテレビのプロレス中継で、外国人の巨漢レスラーを空手チョップでなぎ倒す力道山と同じように、敗戦で「ガイジン」にコンプレックスを抱く多くの日本人を熱狂させた。いわば、零戦の20ミリ機銃は、力道山の空手チョップのような「必殺技」であったのだ。

戦争が終わり、新憲法が公布、施行され、GHQによる占領が解かれても、人の価値観や体験から得た皮膚感覚は、10年や20年で変わりきれるものではない。20歳で終戦を迎えた旧軍人なら、昭和30年で30歳、40年で40歳、50年でも50歳の、働き盛りの年代である。

昭和38(1963)年、大阪生まれの筆者自身の卑近な例で言えば、子供の頃の昭和40年代、ふだん接する近所の商店主や、「おっちゃん」と呼ぶ年配の男性のほとんどに軍隊経験があり、「ワシは徐州の会戦(昭和13年)に出たんや」「ワシはこう見えて陸軍少尉で爆撃機に乗ってたんやぞ」「ワシは上等兵曹で空母『龍驤』や戦艦『扶桑』に乗っとった』などの回顧談の多くは、いささかの誇張を交えた武勇伝だった。中華民国軍との戦いで、敵弾が鉄兜(ヘルメット)に命中、貫通せずに鉄兜のなかをグルグル回り、頭に鉢巻状の傷痕が残る菓子職人もいた。その人は、このときの体験がもとで、やや気が変になっていた。

――ともあれ、学校で先生が教える、戦前、戦中の日本や旧陸海軍を全否定するかのような(それはそれで歴史から目を背ける問題をはらんだ)反戦・平和教育と、日常、身近な大人から聞く戦争の姿には、「戦争はいけない」という結論は同じでも、けっして小さくない落差があったのは事実である。そして前者のいわば「建前」と、後者の「本音」とのはざまにこそ、戦記本が読まれる土壌があった。