高度成長期の出版界を牽引した野間省一を支えた思想とは何だったのか

大衆は神である(82)
魚住 昭 プロフィール

何よりもうれしいのは……

昭和36年(1961)2月21日、下中弥三郎が他界した。満82歳だった。

下中は死の前日、紀尾井町の料亭に省一と赤尾好夫(旺文社社長)、息子の下中直也(のち平凡社社長)を招き、出版界のさまざまな問題について懇談した。赤尾の後日談によれば、それは「我々に出版界のことを託されたもののようであった」という。

下中の逝去により、省一は書協だけでなく、出版文化国際交流会(アジア文化交流出版会の後身)の会長も兼任することになった。

以来、省一は国際交流を積極的に進め、日本出版界の存在を海外にアピールする運動の先頭に立った。下中が描いた壮大な夢のつづきである。

 

翌年5月、バルセロナで開かれた国際出版連合(IPA)大会への参加を皮切りに、省一は頻繁に海外を旅するようになる。昭和40年(1965)5月には、ワシントンでユネスコのベアシュトック書籍課長と会い、開発途上国の出版援助のために開かれるアジア出版専門家会議への協力を要請された。

ワシントンから帰国後、省一は中近東と東南アジア諸国を歴訪してアジア出版専門家会議への参加を呼びかけ、各国の出版事情を視察して回った。

この旅で、児童にとって必要な教科書や絵本が絶対的に不足しているのを見て、省一は心を痛めた。このころから「これからの世界は東西問題よりも、南北問題の時代だね」と漏らすようになり、「図書飢餓(ブック・ハンガー)」の絶滅を生涯のテーマと思い定めたらしい。

翌年5月、東京プリンスホテルで一週間にわたって開かれたアジア出版専門家会議には、アジア20ヵ国の専門家、技術顧問、オブザーバー、ユネスコ関係者ら85名が参加した。

省一を議長として「アジア地域各国の図書の配給を発展させる方策」「アジア地域と他地域間の図書の流通促進」などの議題が論議されたこの会議の成功は、ユネスコが図書と読書の普及のため、全世界的規模の行動計画を起こすきっかけとなった。

また、アジア出版研修コースの実施を日本が受け持つことになり、その実施機関として財団法人「ユネスコ東京出版センター」(のちユネスコ・アジア文化センター)が設立された。省一はその理事長に就任し、財団の設立・運営基金に私財を投じた。

昭和42年(1967)から、毎年アジア各国の研修生約20名が東京に来て、約60日間にわたって出版技術を学んで帰国し、それぞれの国で出版界のリーダーとなって活躍するようになった。その後、これらの国々が地域的に協力し合って東南アジア出版連合を発足させ、各国が自力で研修を行うほどに成長した。

昭和49年(1974)、省一は第1回ユネスコ国際図書賞を受賞した。青木春雄は業界機関紙に頼まれ、受賞が決まった直後の省一にインタビューした。その際、青木の心を打ったのは省一がインタビューの終わりに漏らした次の言葉だった。

「私が賞をいただいて何よりもうれしいのは、利益にならないことをやった成果が認められたということです」

省一がここで語りたかったのは、出版という仕事に携わる者の夢と誇りだろう。『野間省一伝』によれば、こんなこともあった。講談社内での書籍年間計画会議で児童図書出版の企画を検討していた際、編集部の者がシリーズ物の企画説明をしていて、「これは来年度の目玉商品であります」と言った。

すると、省一は「出版社は文化財を造っているところである。それに定価をつけて書店で売られているから確かに商品ではあるが、販売部の者が商品というのならまだしも、編集者が文化財を造っているという意識がなくて、自分たちの造っている物を商品と言うとはもってのほかだ」と言った。