高度成長期の出版界を牽引した野間省一を支えた思想とは何だったのか

大衆は神である(82)
魚住 昭 プロフィール

瞠目の書協運営

昭和32年(1957)、下中は日本書籍出版協会(略称・書協)の初代会長に就任し、名実ともに出版業界のリーダーとなった。書協の設立委員会総会の冒頭、下中はこう述べた。

「出版社は中小企業である。しかしその仕事は国の文化の発展を荷なうものであり、その責務は実に大きい。中小企業が大企業に立ち向うためには業界一丸となることが大切である。新団体を設立することの必要はここにある。書協の誕生はその意味で大きな意義がある」註③

下中にとって世界連邦運動も、アジア文化交流出版会や書協の設立も、目的は同じ、「世界を平和にひとつに結ぶ」ことだった。ただ、書協設立時に下中は78歳の高齢だったから、自分の志を受け継ぐ人材を育成する必要を感じていたらしい。そのとき後継者として浮かび上がったのが、当時45歳の省一である。

 

市原によれば、下中は省一に「社業も落ち着いただろうから、業界の仕事を手伝ってくれないか」と呼びかけた。

省一は昭和28年ごろから日本雑誌協会に関係していたが、積極的な活動はしなかった。というより、する余裕がなかったというのが実態だった。しかし、昭和30年代に入って社業が成長軌道に乗りだすと、省一は下中の要請に応えて書協の副会長に就任した。

下中は自分の息子のような年回りの省一に好意を持ち、何くれとなく省一を引き立てた。

昭和35年(1960)、下中が健康上の理由で書協会長を退くと、省一はその跡を継ぐことになる。会長就任要請のため、講談社を訪ねた書協事務局長の佐々木繁に、

「佐々木君、だけど、やる以上は僕は完璧にやるよ。覚悟してくれ」

と省一は言った。以下は、佐々木の証言である。

〈そう言われてびっくりしちゃったんですよ。極端に言うと、適当に、最低限やってくれればいい。まあ、理事会に顔を出していただく程度でいいからと思っていたわけです。それが「完璧にやるぞ」と言われ、その通りになった。連日のように私を呼んで、書協の内容についていろいろ聴取された。講談社の社長秘書にも“書協優先”を厳命され、僕が社にうかがうと重要会議中でも必ず会ってくださった。そのため講談社の役員からは「我々でも、お忙しくてなかなかお目にかかれないのに、君は毎日のように社長に会っているね」と、よく皮肉を言われたものです。

僕は一度、震え上がったことがあるんです。書協の事務局は毎月の理事会に月計表を出す。理事は三十五人いるけれども、そんなの見たって、わからないですよね。また、たいして関心もないし。ところが野間さんだけは理事会の前にすーっと目を通してミスプリントがあると、すぐわかる。僕は驚いたですね。講談社の社長ともあろうものが、こんな細かい数字までパッと一目見て、間違いを見つける。ああこれはうっかりしたことはできないなと思いました〉

書協のトップに立った省一の前には、書店・取次側が版元に求める正味(しょうみ。卸値の割合)引き下げや著作権問題など解決すべき課題がいくつもあった。

しかし、書協加盟社の大半を占める中小出版社と、少数派の大手出版社の利害は必ずしも一致しない。思想も異なったから、理事会を開くと、甲論乙駁(こうろんおっぱく)になることが多かった。

佐々木によれば、省一は理事会などで自ら発言することはあまりなく、とにかく出席者の意見を出させるだけ出させた。とくに反対意見を持っていると思われる者は必ず指名して発言を促した。そうして議論を尽くしたうえで、最後に書協としての案をまとめた。

「会長というのは皆の総意に基づいて動くものだ」と省一は口癖のように言った。

佐々木に対しては「書協というのは講談社のような大出版社のためにあるのではなく、中小出版社のための団体なんだから、それを忘れないでやってくれ」とも言った。

こうした省一の書協運営に業界の人々は目を瞠(みは)った。ことに、戦前からの経緯もあって、講談社に反感を抱いていた青木春雄(青木書店社長)や小宮山量平(こみやま・りょうへい。理論社社長)、美作太郎(みまさか・たろう。新評論社長)ら左翼の理事たちが進んで協力するようになった。

「アンチ講談社の大将みたいだった青木さんなんか、たちまち心酔して『佐々木君、僕は野間さんて予想外だった。あんな人だと思わなかった』と言い出した」(佐々木談)という。