高度成長期の出版界を牽引した野間省一を支えた思想とは何だったのか

大衆は神である(82)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦後、教育格差が解消して大きく変容していく日本社会に適応する、見事な舵取りに成功した講談社社長・野間省一だったが、社業を超え、出版界のリーダーとして激務をこなしていくなか、その肉体は確実に蝕まれていた……。

第八章 再生──総合出版社への道⑵

下中弥三郎と『や、此は便利だ』

昭和45年(1970)から51年(1976)まで、講談社の社長秘書をつとめた市原徳郎は、ある時、野間省一に、

「出版界で社長がお手本になさっておられるのはどなたですか」

と尋ねた。すると、省一は言下にこう答えた。

「下中弥三郎(しもなか・やさぶろう)さんだ」註①

下中は『世界大百科事典』で知られる平凡社の創業者である。省一の後半生を語るうえで欠かせない人物なので、そのプロフィールを『平凡社六十年史』に拠りながら、紹介しておきたい。

 

下中は明治11年(1878)、兵庫県立杭(現丹波篠山[たんばささやま]市)に生まれた。立杭焼(たちくいやき)と呼ばれる陶器の産地である。実家は比較的裕福で、父親は漢学の素養があったため、窯業(ようぎょう)や農業を営みながら、自宅で寺子屋を開き、近所の子供に読み書きを教えていた。

ところが下中が2歳のとき、父親(当時33歳)は毒キノコにあたって急死した。以来、下中家は困窮し、屋敷を借金のかたにとられた。一家は、納屋に床板を張って暮らし、下中の姉は女中奉公に出された。それでも借金はなくならなかった。

母は下中に「わしら、壁に塗られた田螺(たにし)や」とよく言った。田螺が泥とともに土壁に塗られると、周囲がだんだん乾いて身動きがとれなくなる。下中家も同じように借金で身動きがとれないという意味である。

下中は家業の窯業を継ぐため小学3年で退学した。それでも学問に対する情熱は失わなかった。ある日、隣家の医師から神戸の土産だといって、博文館の『新撰百科全書』をもらった。

『新撰百科全書』は全26巻のシリーズで、そのうちの数冊だった。活字に飢えていた下中はそれをむさぼり読み、さらに医師に頼んで数冊を取り寄せてもらった。

『新撰百科全書』は下中に初めて近代の息吹を伝えた。彼はそれまで父が読んでいた漢籍について知ってはいたが、読むことはできず、『新撰百科全書』が開眼の書となったのである。

その後、下中は独学で小・中学校の教員検定試験に合格し、さらに埼玉県師範学校の嘱託教員となった。大正3年(1914)には、自ら編集した『ポケット顧問 や、此は便利だ』を出版するため平凡社を創設した。

『や、此は便利だ』はポケットサイズで、新聞・雑誌にあらわれた新語・流行語・故事熟語のうち、やや難解なものを集めて解説した用語辞典だった。下中は自身の苦学の経験から、教育を満足に受けていない庶民が新聞・雑誌にアクセスできるようにしたいと考えたのである。

この本は世の注目を浴び、重版を重ねて百版を超えた。のちに下中は百科事典の刊行に乗り出すが、その原点となったのが『や、此は便利だ』のヒットである。

昭和初頭、下中は円本ブームに乗って『現代大衆文学全集』(全60巻)を出版し、大成功を収めた。さらに昭和6~10年(1931~1935)には『大百科事典』(全28巻)を刊行し、平凡社は日本を代表する事典出版社となった。

ユートピア的アジア主義

こうした社業の一方、下中は「啓明会」という教員組合を組織したり、農民運動や無産政党運動にかかわったりした。しかし、満洲事変が起きた昭和6年(1931)ころからアジア主義(欧米の侵略に抵抗するため、アジア諸国は日本を中心に団結すべきだという考え方)・超国家主義への傾斜を強め、昭和15年(1940)の大政翼賛会の発足に協力した。

このため戦後一時、公職追放になるが、昭和26年(1951)、平凡社の社長に復帰すると、世界連邦運動を推進し、ノーベル賞物理学者の湯川秀樹らとともに、再軍備反対・平和憲法擁護の世界平和アピール7人委員会を結成した。

下中の思想は「左」から「右」へ、また「右」から「左」へと変転きわまりないように見えるが、一貫してその底流をなしているのはアジア主義である。晩年に情熱を注いだ世界連邦運動もアジア主義のユートピア的拡大版と解釈していいだろう。

下中は昭和28年(1953)、日本とアジア諸国の相互理解を深めるためアジア文化交流出版会(のちの出版文化国際交流会)を発足させた。そのときの挨拶で彼は「世界を平和にひとつに結ぶ道は、何といっても文化の交流であります」と述べている。これが「本を通じての文化交流」という明確な目標を持った業界活動のはしりとなった。註②

下中は日中の国交回復にも精力を注いだ。昭和31年(1956)、アジア文化交流出版会の訪中団を率いて北京に渡り、郭沫若(かく・まつじゃく。中国を代表する文学者)と会談した。その際、下中は「できることなら地蔵となって、日中国交回復の道しるべになりたい」と語っている。