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エッフェル塔も、メトロも。現在のパリを作った「万国博覧会」の歴史

「進歩」の19世紀から、戦争の世紀へ
1855年から1937年にかけて、パリでは計6回もの万国博覧会が催されました。当時の最新技術、工芸品、芸術作品の展示を通した「国威発揚」の場であった万博は、その舞台となる都市にも大きな改革、発展をもたらします

パリでも、万博のたびに、最新の建築技術や意匠を用いた新建造物や、都市空間の整備が計画されました。そこには、今ではパリの象徴ともいえるエッフェル塔パレ・ド・トーキョーのような文化施設、パリでの生活を支えるメトロ(地下鉄)まで、現在のパリに欠かせない多くの要素が含まれています。

万国博覧会を通したパリの発展について、2000年以上にわたるパリの歴史を描いた高遠弘美氏の近刊『物語 パリの歴史』(講談社現代新書)からご紹介します。

万国博覧会は「国威発揚」を図るものだった

19世紀を特徴づけるキーワードのひとつは「進歩」かもしれません。と言っても、主として技術的進歩に留まるのですが。

 

博覧会の起源としては、1761年にロンドンで開かれた産業博覧会が挙げられます。フランスでは、1798年に国内産業博覧会が開かれ、同様の催しが各国に拡がって行きました。産業革命で飛躍的な発展を遂げた技術を世界に知らしめ、これもまた19世紀的な用語で言えば、国威発揚を目途とする機会と捉えられたのです。そうなれば、一箇所に各国の技術の粋を集めて広め合うことが重要視されます。国内博覧会が「国際」博覧会、つまり万国博覧会に変貌して行くのは自然の成り行きでした。

1851年、第1回万国博覧会がロンドンで開かれます。このときに、造園技師ジョゼフ・パクストンが設計した鉄とガラスの「クリスタルパレス」(水晶宮)は、レ・アールを造るときにナポレオン3世が参考にしたほか、その後の公共建築に多大な影響を与えました。

ロンドン万国博覧会の「クリスタルパレス」(photo by wikimedia commons)

万国博覧会は新技術のお披露目という面もあり、2年後の1853年、ニューヨークで開催された第2回万国博覧会では、エリシャ・オーチスが発明した落下防止装置附きエレベーターが話題となり、エレベーターの実用化の道が拓かれました(オーチス社は今でも世界屈指のエレベーター会社です)。

第3回パリ万博とジャポニスム

そして、1855年の第3回万国博覧会が開かれたのがパリでした。シャンゼリゼに隣接する会場には500万人を超える来場者が押し寄せました。目玉のひとつがロンドンの水晶宮を意識して造られた産業宮でした。産業宮はその後、1900年のパリ万博に合わせて壊されて、現在のグラン・パレと科学技術博物館(発明宮)が建てられました。ボルドーワインの格づけが正式に始まったのはこの博覧会からです。

次にパリで万国博覧会が開かれたのは1867年。日本がはじめて参加した博覧会でした。数寄屋造りの茶屋で、3人の柳橋藝者が煙管をふかしたり独楽を回したりするさまが珍しく、大人気となります。ここまでがナポレオン3世の肝煎りの万国博覧会でした。次回以降は共和制のもとで開かれます。

1878年のパリ万博では、現在エッフェル塔を正面に見ることのできるシャイヨー宮のある場所に建てられた石造りの宮殿トロカデロ宮と、エッフェル塔のある場所に造られたシャン・ド・マルスのパビリオンが人気でした。トロカデロ宮は一九三七年のパリ万博の際、シャイヨー宮として建て替えられます。ドイツ帝国は招待されませんでした。日本も出品し、ジャポニスムが拡がってゆきました